消す力と描く力の応答/児玉靖枝 「深韻 2011 -わたつみ-」

恵比寿のMEMにて児玉靖枝 「深韻 2011 -わたつみ-」展。僕が児玉靖枝という人の作品を初めて見たのは1995年の「視ることのアレゴリー」展(セゾン美術館)で、その、大胆なストロークと、キャンバスの白あるいは拭き取られた中間調子の鮮烈さが印象に残った。絵画がイメージで画面の全てを覆わず、余白を残していること(しかしマチスセザンヌとは異なる形で)。その「描かない」力、というものをまざまざと感じた。同じ展覧会に出品されていた岡崎乾二郎松浦寿夫といった人々の作品でも「余白」はあったのだけど、その質が異なっていた。精密なイメージの断面のような岡崎氏、じっくりと、ある時間を内包して構築されていた松浦氏の作品に対し、児玉氏の作品はそのスピード、フレームを駆け抜け貫通するストロークと、残された白があまりに新鮮で、ちょっとたじろぐような感覚を覚えた。絵画がこのように可能なのか。あのまったくペインティングが難しい時代に、児玉氏の作品は何か隕石の落下のようなショックとしてあった。


上で「描かない」力、と言ったけれども、正確に言い直せば、児玉靖枝という人の中核にあったのは「消す力」だったのではないだろうか。この、かなり早い段階から注目を集めていた画家の、キャリアの一番最初にあったのは雑木林を描いた具象画(1989年、「Natura Mort」油彩、キャンバス)で、僕はこの作品について、油絵でありながらまるで紙に鉛筆で描いたイメージを消しゴムで消した痕跡のようだと思った記憶がある。「Natura Mort」ではオーソドックスな油絵の具の描画の積み重ねで画面は構築されていたけれども、薄く靄の中にかすむ木立のようなイメージと見えるものは、むしろ淡い褐色めいた白にかき消されていると言っていい。実際、その後の児玉靖枝という名前が広く知られる契機になった抽象的な仕事でも、この画家は薄く溶いた絵の具を、さっと布で拭って、まるで画面が世界に向かって呼吸しているかのような像を形成していた。柔らかな色彩の痕跡にこそ、作品の牽引力が宿っていたように思う。


このような「消す力」が後退して、はっきりと「描く力」が前に出て来たのが2000年代中頃からの児玉氏の、改めて具象的なイメージが回帰してきた作品群だろう。2004年に多摩美術大学美術館で開かれた「四批評の交差」展での出品作は、ぺったりとグレーがかった絵の具が斑点状に配され、花や木の葉を下から見上げたように見える作品で、あの「速度」を持ったストロークが無くなっていた事に、ちょっと児玉氏の作品を見る貴会が中断していた僕はとても驚いた。2008年の(当時京橋にあった)ギャラリー21+葉での児玉靖枝展で見たのは、細かなタッチが画面上で、蠕動するようなねじりを見せつつ木立や枝のような形象になっていた作品だ。非常に清潔で、この作家の本来の「描く力」のセンスの良さが横溢し、またキャンバスの地が改めて息をしていたけれども、やはり僕はどこかに「消す力」を持っていた児玉氏を懐かしく思ってしまっていたと思う。


今回展示されていた作品は海を描いたもので、全てが横長の構図となる。おおよそ水平方向にはしりつつ積層されたストロークが、茫洋とした海面を想起させる。表面は深い青緑、あるいはオレンジのほぼモノクロームで覆われているが、画面淵に、マゼンダやピンクの層がすけて見える。オレンジの作品は中型〜小型のサイズで不透明な抵抗感のある絵の具が使われており、青緑の作品は大型で透明色が使われている。画面下部と上部に白を足された明るい箇所があり、それが画面をサンドするような構造になる。下辺の明るいタッチは荒く大きく、上辺近くの白は相対的に細かく置かれていて、このことによって一見オールオーバーな色面が、前後のイリュージョンを作り出す(下が近景のように見える)。青緑の大型作品では、ところどころに透明な樹脂系の油のドロッピングのような痕跡があり、画面下部の粗い明るさの部分ではタッチが消されず残っている。


トークイベントで児玉靖枝氏本人が語っていたように、写真を元に制作された、映像的なイメージの作品なのだけれども、僕が今回の作品を、以前の花や木の葉を下から見上げたような作品、あるいは木立を描いた作品とは異なって受け取ったのは、多分、ここでは「描く力」と「消す力」が、ある一点で均衡し、相互に応答しあっているからだと思う。描画は「描写」になりそうでありながら、必ず長いストロークでかき消され、はっきりとした光景を形作る前に絵の具の粘度の中にとけ込んでいく。絵の具はイメージになりそうでならず、イメージは絵の具に還元されそうでされない。いわば絵の具とイメージが、その中間段階で宙づりにされたままで提示されていると言っていい。絵の具とイメージ、即ち消す力と描く力の相互の干渉作用、呼応の繰り返しが画面をある質の高さにまで持って行っている。イメージは絵の具に従属しないように有ろうとし、、絵の具はイメージに従属しないように有ろうとする。やはりトークイベントでの児玉氏の言葉に「色は色のままではいけなくて、光にならなければいけない」というものがあったけれども、この作家は、絵の具が、あるいはイメージが(あるいは目に入るあらゆるものが)この世の中で占めているある場所、あるいはある状態から、ちょっと位相をずらすことに何かを懸けているのかもしれない。


児玉氏の言葉を反対に言えば、おそらく児玉氏は、自分の感受した光を光のまま提示することにまったく興味を示さないのではないだろうか。取材のために撮影した写真がいかに良い写真でも、それを展示することはないだろう。それは一度絵の具という物質に落とし込まれ、そしてそれが絵の具から改めて光りに変容する、そのメタモルフォーゼこそを捉えようとしているように思う。そしてそのための手法こそが「描く力」と「消す力」を応答させ合う独特の描きなのだと思う。率直に言えば、僕は今回の作品はそれでもやはり「描く力」が勝ってしまい、最終的に絵画が映像的なものに従属してしまっていると思う。それでも、例えば大型作品の下部に、絵の具がイメージに収まらず荒く露呈している箇所、あるいはドリッピングが残されている箇所に、この作家の試行錯誤は見て取れる。