羽釜の思い出。

・私と配偶者、幼稚園に通い始めた長男で暮らす家の台所に昨晩、羽釜が来た。実はこの羽釜は私も知らなかった「いわくつき」だったらしい。


・「いわく」は知らなかったが、この羽釜自体はイヤになる程見覚えがある。今は誰も寝起きしなくなった、私の実家にあったものだ。かつて実家には両親と姉と私の4人で住んでいた。羽釜、と言われてすぐ解る人はどのくらいいるだろう。ごはんを炊くための、大きく重い木の蓋のついた釜だ。底の外面はこげついてざらざらし、周囲は何度も繰り返された吹きこぼれのせいか若干変色している。しかし十分使える。


・私の記憶には、いわゆる炊飯ジャーの姿が出てこない。正確には実に簡単な、炊くだけで保温の出来ない炊飯器はあったのだが、少なくとも母はおさんどんのほとんどの場面で羽釜を使っていたと思う。30年以上前の話とはいえ友人の家に行けばごく普通にジャーが使われていた時代だ。


・しかし母はまったく頓着せず毎日、羽釜で御飯を炊いていた。実家は私が幼い頃は平屋で、小学校に上がってから二階が増築された。その際、台所は元の場所から姉の部屋でアプライトのピアノが置いてあった四畳半の場所へ移された。そのどちらのガスコンロにも、羽釜がかかっていたのを思い出せる。私は父の膝に乗ってビールの泡をすすり喜んでいた。六つ上の姉は家事を手伝うような性格ではなかった。母は、淡々と一人で家事をこなしていた。


・姉は高校卒業後、某チェーンショップのアルバイトに急速にのめり込んだ。短大をすぐに辞め、進学にかかった費用を自分の稼ぎで全額両親に返却して、とっとと独立してしまった。そこで知り合った義兄と結婚し、子供を産んだ。私は大学を卒業して一年程は生家にいたが、やがて廃屋同然のボロ屋をアトリエ代わりにし、そこで寝起きしつつ作品制作と会社通いをするようになった。実家は、母と父の2人だけになった。


・父が脳梗塞で倒れたのは私が配偶者と結婚し都内に引っ越した年の秋で、病院へ母が毎日通い、介護をする生活になった。随分と認知症も進行したが、食べる事だけは旺盛だった。母は細やかに煮物や甘いものをタッパーに入れては自転車で通った。しかし食事が満足に食べられなくなってからは父は急速に衰えた。三年経った時、亡くなった*1


・そして重大?発表が出る。葬儀の後、親族だけで火葬場に向かった。出来たばかりの最新の火葬場はまるで美術館みたいな作りで、係の人はホテルマンみたいだった。こぎれいな控え室で父の火葬の時間を、皆で適当に雑談しながら過ごしていた時、お墓の話になった。


・うちの墓は栃木にあったが、父の病状が思わしくなくなってから、母は墓を地元に移した。公営霊園の一角である。今焼いている父の骨はそこに入れる事になるが、私も姉もまだ新しい墓を見ていない。どんなかね、と何気なく2人で話していたら、母がさらっと言った。「あんたたちに話してないことがある」。


・私と姉は、続けて母が言った言葉にひっくりかえった。曰く「お墓には父ちゃんの前の奥さんが入ってるから」。


・母はけろりとしている。姉と私はしばらく顔を見合った。間をおいて、腹を抱えた。マジかよ親父再婚かよ。ちょっと待った、俺たち姉弟じゃないの?「いやあんた達は私が産んだ」おおーセーフ。何がセーフだ。ええー何?親父の前の奥さんて?「かずみさん。父ちゃんと結婚してすぐ病気で死んだ。その後私が嫁いだ」姉貴知ってたのかよ。知らねーよ。あ、どっかに兄さん姉さんとか?「いない、いない」。


・流石に火葬場の控え室で大騒ぎは出来なかったが、姉と私は大いにテンションがあがった。今知る自分たちの出生の秘密(ではなかったけど)である。焼き上がった遺骨を骨壺に入れ、葬儀場に戻って、親族だけで改めて会食となった席は、ほぼ宴会の様相を呈した。姉の三人の子供も含めて元々静かな人間達ではなかったのだけれど、後々母が「あんな賑やかな葬式があるかい」と笑いながら言うような場になったのは「かずみさん」のビックサプライズ故だろう。


・墓を移したことは母がかずみさんの遺族にも伝えたらしい。連絡先を知っていたのもびっくりである。折りをみて、かずみさんのご兄弟が我々の生家に挨拶に来た。私も同席した。これは姉が私に薦めた。母はこの場もあっさりこなした。どうでもいいが、この頃には私たち姉弟の間で「かずみさん」は、「かずみん」と呼ばれる様になった。母は無事父の遺骨を新しい墓に収めた。かずみんの小さい骨壺と並べて。


・で、話はここからである。父の死から5年後に私に長男が生まれ、彼が2歳になる頃改めて住居兼アトリエも構えて1年半。昨日になって、たまたま今は母が自分で入った老人ホームから昼間だけ自転車通いしている実家に、私の配偶者と長男、私の姉、姉の娘とその子供(母のひ孫である)が集まったらしい。そこで、使われなくなった例の羽釜が配偶者に手渡された。


・我が家には無論新しい炊飯器があるが、実は母から小さな釜を貰っていて、結構な頻度でそれで米を炊く。実家で母の米を食べた配偶者が美味しいのはなんでだ、と言い、実は、と母の羽釜炊飯自慢が始まって、興味があるならやってみろと渡されたのが1号半も入れば一杯の小さな羽釜だ。最初は姑相手の義理もあったろうが、配偶者はほどなく羽釜炊飯の便利さに気づいたようだ。


・美味しいというのもあるが、なんと言っても手早く簡単なのである。ジャーで炊けば30-40分はかかる炊飯が、釜なら10分もかからない。無論浸水時間を取らないと芯が残り易いが、ちょっと水を多めにしてしまえば食べられるものはできる。火加減だって最初強火、沸騰したら弱火にして、蓋をあけて水気がなくなってたら完成。


・「赤子泣いても蓋とるな」みたいな厳密な事をしなくても用が足りる。味を追求しないならレンジで加熱するパック御飯もあるが、そもそもそういう準備がなくてジャーをセットし忘れたみたいなシーンで重宝するのだ。私も追ってその使い方に慣れた。いまや夫婦で代わる代わる釜生活だ。計画停電の時も活躍した。そこで母はすっかり使わなくなった年代物の羽釜を、うちによこすことにしたらしい。


・その事自体は別に問題ない。子供も3歳になって、小さい釜に不足を感じていた頃合いでもある。羽釜は新しく買うと意外に高価らしい。あの、なんでも取っておく習性の母と、最近すっかりエコな人になってしまった配偶者の間で古い羽釜の再活用が決まった。


・ところが、である。貰い際に、配偶者は母から、またもやさらっと言われたようなのだ。「その釜は、かずみさんの時からあったもんだ」。


・深夜の台所で私はあぜんとした。あの釜、かずみんの遺品かよ。


・そして思った。「親父、やるなぁ」。自分の所に嫁いで来た女性2人に立て続けに同じ羽釜で米を炊かせていた父もたいがいである。無論、本当に「やる」のは、何の屈託も見せずその釜を使い続け、最後に独立した息子の嫁に使わせてしまう母なのだろうが、まぁここは父を立てておく。どのみち私には父の真似はできそうもないし。


・母はきっと今日も老人ホームから、あの小さな実家に通うのだろう。私も盆には墓を洗いにいくことになる。母と一緒に、妻と、父に合わせる事が叶わなかった長男を連れて。

*1:そのときの様子はこちら。http://d.hatena.ne.jp/eyck/20050814