繋がってはいけないものが繋がるとき/映画「ナゴシノハラエ」

大原とき緒監督の映画「ナゴシノハラエ」を渋谷UPLINKで見ることができた。ホームページ(http://www.uplink.co.jp/factory/log/004028.php)に記された紹介文を以下に引用する。

「私の恋人は兄だ」衝撃的な告白から始まるこの映画は、これまで描かれてきた兄と妹の近親姦を女性の目から映したものだ。夢野久作の『瓶詰の地獄』を兄ではなく妹の視点で見たら、どうなるか?




(以下、ストーリーの重要な部分に関する記述があります。作品を未見の方はご注意ください。)






この映画は、「よくわからない」。だが、そこが面白いと思う。「ナゴシノハラエ」の「わからなさ」には二つのレベルがあると思うが、顕著なのは物語における人称の類似あるいは意図的な重ね合わせだろう。例えば主人公の翠(すい)と近親相姦関係にある兄の舜が、映画半ばで双子の兄弟(シュンとジュン?)と分割される。また、その兄の子どもを宿しているという女性が兄のことを(血のつながりのない恋人同士であるにもかかわらず)、翠と同じように「お兄ちゃん」と呼ぶ。更には、主人公の翠(そして双子の兄弟のシュンとジュン)の母親(アヤコ)が、明らかに翠と同世代くらいに若いだけでなく、外見が翠と似ている。この映画を見る者は、今目に見えているのがシュンであるかジュンであるかわからなくなり、耳に聞こえる「お兄ちゃん」という呼びかけが実の妹によるものなのか恋人のものなのかが判別がつかなくなる(なにしろ画面内に兄と妹がいるシーンから、妹がフレームアウトした、その場面で「お兄ちゃん」という声が聞こえてきて、てっきり妹による呼びかけかと思ったら明らかに違う女性−違いを強調するためにショートカットにされている−が飛び込んでくるのだから、意図的であることは間違いない)。更に言えば、翠や舜の母親の面影には翠がどことなく投影され、翠が写っているときには母が投影される。


しかし、このような操作は意識的である分物語全体を破壊するような混乱は生み出さない。むしろ、「母」が「妹」であるのは作品世界の端的な事実だ。実際に翠の母は同居していた兄と(翠と同じように)近親相姦の関係にあり、このことが翠と舜において反復している。舜が双子なのは物語構造上のイリュージョンにすぎないし、だから兄は本質的には一人なのだ。この映画において重ね合わせは繰り返される手法で、一度そのことに気づけばむしろ複数の物事がオーバーレイされかつ分離していく有様こそが作品のエンジンになっていることが了解できる。重なるのは人物だけではない。早朝あるいは夕刻の色づいた川面を捉えつつ、続けて同じ色をしたストライプの布に横たわる翠のカットが出たり、同様に同じような色調の服を着た翠がブランコに乗っていたりする。明らかに川と翠が重ねられている。また状況も重ねられる。舜に恋をしながら結婚をしようとしている翠の親友が、舜への想いを訴えながら泣くと、フーガのように同じことを言い出して翠が泣き出す。


本来繋がる筈のないものが、繋がってしまう。それこそがこの映画のモチーフであることは、表面的なシナリオを追うレベルの「わかりにくさ」を超えてむしろストレートに表現されていると言ってもいい。さらに言えば、この映画は繋がってはいけないもののつながりが描かれる場面で、頻繁に「外部」が侵入する。翠と舜が同衾しているところに吐き気がやってくる。舜と翠の友人が抱き合っているところに父親の愛人だった女性がやってくる。あるいは上記の、翠と友人が追いかけあうように泣き出す場面で電話が鳴り出す。このようなシークエンスが繰り返される。最も象徴的なのは女性との結婚を決めた兄のところに、刃物(?)を持ってやってきた翠が、その殺意を頓挫させてしまう場面だろう。台所に立つ兄を、もう一歩のところで「刺し殺す」=繋がってはいけない形で繋がろうとする場面で翠にコーヒー*1が差し出される。このコーヒーこそ、兄が翠との関係の外部で獲得してきた「広い世界」の肯定的力になる。女性と暮らすことになる喫茶店で獲得してきた技術によって淹れられたコーヒーは、「おいしい」。この、外部そのものである「おいしさ」が、兄との近親相姦関係に内閉しそうな翠を「ひろい世界」にいざなう。川(翠)は広い世界(海)に繋がっている。ラストシーンに向けての展開は、どちらかといえばオーソドックスと言っていい。


だが、「ナゴシノハラエ」の「わからなさ」(面白さ)を支えるのはストーリー上の交錯だけではなく形式的なレベル、映像の文法によるものでもある。この作品の映像は混乱していると言っていいほどに複数の文法によって撮られている。開巻直後、翠のアパートの階段を登る舜の足元を追うカメラはドキュメンタリー的な手持ちカメラの映像だが、その映像はただちに固定された三脚による一般的な映画の画面へ移行する。そしてリアリズム的な映画のフレーム内で、あからさまに演劇的な台詞が語られる。やがてその演劇的な台詞は演劇的な芝居に拡張され、実際に映画内で演劇が上演される(この芝居の練習シーンを撮った映像は作品中最も成功しているシーンだと思う)。カットは特に序盤で滑らかに移行せずぎこちなく編集され、カメラの立ち居地が不安定で、いったい誰の視線なのかが定まらない(中盤以降、カメラ位置は曖昧なまま妙な安定を見せるようになるけれども)。主人公兄妹の母親は川原に和装を着て椅子に座っているというまったくリアリティのない幻想的な有り様で出てくるが、次のシーンでは生活感に満ちた狭い安アパートの翠のごく常識的なカットになる。全てが演劇的なのでもなく、全てがリアリズムなのでもなくドキュメンタリーでもない。それぞれがおよそ恣意的につながれている。


演劇的なものと映画的なものに加えて、恐らくこの作品には漫画的な位相も連結されている。父親の愛人のダンサーの元にくる舜は、異様に性的魅力に満ちた「キャラ」として描かれているが、その描かれ方は実際に魅力的であるというよりは「そのような設定がされている」という説明的な芝居による表現で、突然笑い出す仕草などは記号的と言って差し支えない。この映画のインスピレーションの元には、夢野久作の「瓶詰の地獄」が置かれているが、兄と妹の近親相姦という主題を映画的、演劇的、漫画的文法の無闇な連結によって描く、という意味では幾原邦彦によるアニメーション「少女革命ウテナ」が連想される。美的な記号によって魅力ある「兄」であるはずが、その記号的振る舞いによって独特な平板さを成り立たせているところなどは、映画版「少女革命ウテナ」の、及川光博を声優に起用した鳳暁生的、と言ってもいい。もちろん、ここで問題なのは近親相姦という主題一点で「ナゴシノハラエ」と他の作品の共通点を挙げることではない。要するに、本来繋がるはずのないものが繋がってしまうという事態が、「ナゴシノハラエ」では物語叙述のレベルと同時に映像の形式のレベルでも起きている、ということであり、そのことがこの作品の独自な「わからなさ」(面白さ)を生んでいる、と言いたいのだ。


よく考えられたシナリオに乗ったショットあるいはシーンの連続において、この映画はおそらく「天然」につながれている。このアンバランスが「ナゴシノハラエ」という作品では欠点というよりは面白さになっている。言ってみれば、プロットを取り除いた映像作品としては、「ナゴシノハラエ」はほとんど一本という全体性を維持できないほどぎりぎりのところまでほどけそうになっている。あるショットとショットを結び付けている必然性は、それが同じスクリーンに続けて映っているということ以上の裏づけを持たない。そしてこれは、恐らく狙われたものというよりは大原とき緒という作家の資質によっていると思えるのだ。例えば作品の冒頭と終わりごろに、高速で移動する鉄道から撮ったと思える映像が出るのだが、これがコマ落ちするような不連続な映像になっている。どうなることかと心配していたら、アパートや川原のシーンは実に解像度の高い映像が撮られている。一枚の絵画にクレヨンで描いた部分とコンピューターで描いた部分がコラージュされているようだ。一般にこのような不連続な断層は均されてしまうが、この監督はそれをしない。リアルな演技が続くかと思えば夢幻的な演技が入り、ごく日常的な空間が映されるかと思えばシチュエーション・コメディのような箱型の空間が映される。それらは緻密な計算の結果編みこまれているのではなく、むしろ直感のようなものでえいやっと挿入されている。


いわゆる映画通のような人からみれば、これは技術的な欠陥と見えるかもしれない。事実、父の愛人と翠が対峙する公園の緊張したシーンの背景に通行人があっさり映りこむところなどは修正されるべきだろう(こういった、背景への人の写りこみの問題点はこの映画に散見される)。だが、そういった細部の瑕疵を超えてなお「ナゴシノハラエ」という作品の、ある種のおおらかさ、針でつつくような工芸的緻密さではない、思い切りのよい(ぶっちゃけていえば無理矢理な)編集が、近親相姦という主題(しかも下敷きが夢野久作)の、閉じようとするベクトルを、強引に外に開いているのではないだろうか。おちついて考えれば、親子二代にわたる近親相姦の輪の展開において、妹による兄殺しといった陰惨な終末が招来されず、「広い世界」への意思によって切り開かれていく、その切っ掛けがたかだか兄が喫茶店で習得した美味しいコーヒー一杯の力によるものだというのも荒唐無稽だ。しかし、そのような「広い世界」への接続が、なんとなく納得がいくものであるのは、この強引とも言える編集の「天然さ」によるものだと私は思う。万一、このモチーフが、工芸性に基づく「上手な編集」に満ちていたら、それがいかなるプロットであっても作品は実際には閉じてしまうのではないかという予感がある(冒頭、いかにもな蝉の死骸のクローズアップに重ねられる朗読の重苦しい感じに「嫌な予感」がするのだが、この予感はきちんと裏切られる)。


「ナゴシノハラエ」は、夢野久作的な近親相姦の世界を女性の視点から描いた、というだけでは収まらない面白さを持っている。この作品では複数の幻想が、必ずしも適切に交わらないまま色々な方向に、いわばてんでばらばらに転がっていく。その転がり方の重なり具合と解け具合が不思議な所で世界を肯定していく。この肯定の力は、なまじな達者さによっては塗りつぶされてしまうだろう。繋がってはいけないものが繋がってしまったとして、しかしその繋がりが肯定の力に変換されるのは、狙い済ました計算ではない。無闇に川を下っていっていつか海(産み)にたどり着いてしまう、そのような生命力なのだと思える。

*1:当初このコーヒーを紅茶と誤認していました。ご指摘くださった方に感謝します。