剥がされた壁と強度のない「べちゃ」/masuii R.D.R 大川祐 展

twitterに投稿したmasuii R.D.Rの「今、生きているということ -大川 祐- 展」を、以下にまとめます。こういう試みは今年2月の上田和彦氏の作品について書いたとき(http://bit.ly/qDk4VJ)に続き2回目になります。twitterという形式故のレビューになったと思います。誤字などが酷いですが、あえてそのまま掲載します。

・そういえば今日は川口のmasuii R.D.Rで大川祐 展を見てきた。DMでは絵画なのかと思ったけど、会場と強く相互作用を持つインスタレーション的作品。http://bit.ly/7Xql8k


・コンクリートの床、配管と梁が露出したギャラリーの壁面に、ベニヤ板にペンキのタッチが置かれた平面作品が1点だけある。ベニヤの地は露出していて、タッチはほとんど絵画性はなくたんにべちゃっと置かれた感じ。


・建築現場でバイトをしていたことを思い出した。化粧されていないコンクリートの壁面とベニヤ板に、汚れが付着しメモや職人相互の伝言が殴り書きされていたりする。masuiiの大川祐 展は、いわばR.D.Rギャラリーの最低限の化粧も剥がしてその構造を露出したみたいな展示になってる。


・それは単にギャラリーの構造を露出した、みたいな制度的な暴露ではないと思う。べちゃっと置かれたタッチは明らかに人の手、しかも特に緊張も職人技も使われていない。それがわざわざ置かれていることを考えなければいけない。


・ギャラリーという、制度的構造を露出したいならベニヤだけで十分だろう。また、アーティストに対するアーティザンなものを称揚したいなら、そのタッチは工芸的なフラット塗装になるだろう。


・大川 祐氏の「べちゃ」っと置かれた、まったくテクニカルな要素がない塗料の付着は、アーティストともアーティザンとも異なる。それは実にやる気のない、途方にくれた、あるいは疲労した人の痕跡にみえる。


・このような痕跡に、様々な社会的なコノテーションを付与するのは凄く簡単で、実際作品にそういう、ある種の「簡単さ」を見てしまうのは事実不可避だと思う。でも僕はあの「べちゃ」っとした、強度のないタッチを、何かに結び付けて考えることはしたくないと思った。


・大川氏の「べちゃ」は、社会問題や美術制度とかの回答に結びつくまえの、なんでもない「べちゃ」であることにポイントがあるように思う(あるいはそのように見る事にだけ可能性があるように思う)。


・僕が学生の頃、単なる小遣い稼ぎのために建築現場でバイトしていたときの、所在無いただの掃き掃除や水撒きでコンクリートとベニヤの現場につかの間残した「べちゃ」っとした痕跡。恐らく、そういう、なんにもならない宙吊りの労働の痕跡が大川氏の作品に一番近い。


・恐らくは大川氏の作品は作品として、フェアに言って「弱い」と思う。しかし、その「弱さ」も含めて、あるなんでもない「べちゃ」っとした行為の露出が、ギャラリーに何かを足すのではなく、むしろ一部を引き剥がすような形で提示されていたことに、僕はちょっと心動かされた。


・masuii R.D.Rの「今、生きているということ -大川 祐- 展」は16日まで(最終日は17:00まで)。http://bit.ly/7Xql8k