絵の具と一体化した描きが産む色彩と明暗・野沢二郎展

コバヤシ画廊で野沢二郎展。野沢氏は描くことで「描くとはどういうことか」を問う作家で、恐らく本人はそういう言い方を拒むだろうが、基本的にモダンな画家なのだと思う。野沢氏の画面にはロスコを想起する色彩があり、部分的にはリヒターかと思わせるマチエールがある。一見要素の少ない画面には膨大な絵画的記憶へのリンクが埋め込まれており、それはいかにも視覚への快楽に奉仕しているかのようだ。ことに近年その傾向を強め、今年になってある限界に達したと思える平滑性、筆ではなくシルクスクリーン用のスキージで油絵の具をベール状に引き伸ばして積層してゆく表面を見ると、人はたやすく視覚性と深奥空間に飲み込まれてしまいそうになる。左右に、あるいは上下に、滑らかに延びてゆく油絵の具はやもすると映像的なイリュージョンを成立させそうになる。


だが仔細に見れば、そのひたすらに平滑な画面に、ぬぐい難い触覚性、こういってよければエロティックな肌合いを見出すことができる。無論、平滑とはいえ例えば一部の白い絵の具は盛り上がり下の層には埋没せず半ば乾燥途上のような生々しさを湛えている。つまりマテリアルが顕現している。しかし、その白は、例えば2006年頃の無防備なありように比べればむしろ適切にイメージに収まっている。私がより強くイメージに回収されない触覚性を喚起されるのは、むしろ平滑な箇所なのだ。野沢氏の絵画における「平滑」とは、けしてなんら身体的徴候のない「フラット」ではない。ブラッシュストロークのようなあからさまな身体のインデックスがないだけ、強靭でかつ弾力にとんだ「描く行為」が高密度に集積されている。描きの高原状態?あるいは今回の個展のタイトルに沿っていえば描きの海の水面だろうか。たしかに穏やかな画面だが、しかし、そこには凶暴とも思えるような海流が渦を巻いているはずなのだ。


思い返せば、2000年代初頭の野沢氏の、ぎざぎざとのこぎり状に加工されたスキージが繰り返し分厚い油絵の具を盛り上げては削り取っていた、荒々しい絵の具のボディのマチエールは直接的に「描く行為」そのものとイメージが拮抗していた。画面上に現れる像はシンプルで、明度の低いローアンバーの層に、明るい黄色や赤がのることで輝くようなイリュージョンを形成していた。無論当時の野沢作品の中核にあったのはそのようなイメージだけではなく、そのイメージが結果として析出されるまでの絶え間ない「描く行為」が刻印する質にあったことは確認しておこう。翻って直接的なタッチが長く、平らに引き伸ばされた今回の個展の出品作はどうなのか。「水面/紫立つ」と題された120号の作品を見て見れば、垂直方向に、あるいは水平方向に引き伸ばされる絵の具は、完全に乾く前に、しかしある程度は乾燥しつつある状況で、実に絶妙のタイミングで重ねられ、相互の境界線を段差無く、しかし混濁はせず明瞭に色面の差異線を形成する。ここで何がおきているかといえば描く、という行為が絵の具と分離して描きの痕跡をつけるための過程としてあるのではなく、油絵の具の、伸び、混じり、乾き、しかし同時になかなか乾かない、その性質の中に内在しているということなのだ。


これがつまり、冒頭に書いた「描くとは何か」という問いの、野沢氏の現時点の答えなのだろう。描くことが、絵の具から乖離せず油絵の具の資質それ自体と完全に一体化していく。野沢氏の絵画の平滑さはその結果だと言える。そして重要なのは、そのような高度な油絵の具の把握から生み出される「描き」の重なり合いが、キャンバスを単一性に導くというよりは、一回ごとの描きの差異を露出していくという点にあると思う。それは色彩の差異でもあり、絵の具個別の微妙な性格の差(顔料の性格、あるいは乾性油の質の差などか)でもあるだろう。だが、野沢氏の絵画がシンプルなカラー・フィールドではないことを示すのが、明らかな明暗への指向にあるのではないだろうか。前述の2000年代前半の作品が、アンバーに明るい色彩を載せていたことと通ずるのだろうが、野沢氏の絵画には今回の出品作も含め常に強い明暗のコントラストがある。マチスに代表される近代絵画がヴェネチア派に起源をもつ「色彩派」をその主流としているのに対し、野沢氏の絵画には、むろん色彩も豊富ながら、それと分離せず明暗の意識が確実に息づいている。作家がコメントとして谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」に言及しているのは、見逃すべきではない。


色彩とは光であって、光であるならばそこにはまた影が生まれる。その影を駆逐し、画面全体にフラットに光が当たるような「明るい」絵画、あるいはそれ自体が光源となるような絵画が(例えばロスコのような「暗い」絵画も、あくまで「暗い」光を全体から発する作品だと言える)近代絵画の主流だったとして、野沢氏の絵画はそこに敢然と影を導入している。しかも単なるイメージとしてではなく、油絵の具の性質に内在しながら。「闇」へのベクトルが野沢二郎という画家には濃厚にある。当たり前だがそれはダヴィットやアングルへの退行ではない。野沢氏の影は形態に従属しない、いわば純粋な影だ。むしろ影にも色彩があること、いや影とは色彩の一部であることを認識していたルノワールやモネを踏まえつつ、野沢氏は色彩と明暗を単純に切り分けない全体的世界(ユニバース)へと向かっているようにも見える。