半分だけ見え隠れする光景−及川聡子展「薄氷/水焔」

冬枯れた葦やがま(蒲)の立ち並ぶくさはらを、足下だけ見てあるいていたことがある。子供の頃だ。沼地わきの空き地だったろうか。休耕田のようなところだったろうか。視界を白く乾燥した草に覆われた地面だけが、自分の歩行に沿ってスライドしていく。流れて行く地面は思いの他早く、自分の足が左右交互に現れては消えて行く。前を見ていないから、いつ湿地に足を突っ込むか、あるいは鋭い茎で天を差す葦の群れに入り込むか分からない。ただ、足下の植生や湿り気などで周囲の様子を予想する。危ないな、と思ったら足を止める。ぴたりと視界の流れが止まる。当たり前なのに、面白くていつまでも歩き回っていた。


そんな事を思い出しながら銀座のギャラリーせいほうで、及川聡子展「薄氷/水焔」を見ていた。及川聡子という作家の特徴的能力は、集中した観察や精緻な描写というよりは、それらを踏まえた上で、むしろ対象を抽象化しモデル化するその方法にあるように思う。ほぼモノクロームで文字通り冬の水辺に張った薄い氷から覗く草木や、立ち上る湯気(アトリエで膠を湯煎するための鍋から上がるそうだ*1)を日本画の技法で描いている。モデル化とは、例えば水面から突き出た植物の茎は細部が省略され、画面を斜めに走る太い直線になっている。氷は薄いベールとして画面を白く覆う層として機能している。それは風景の模造ではなく、平面に対する絵筆の描きだけが形成できるビジョンだ。「薄氷」のシリーズは濃淡の様々な境界線が画面を積層化しレイヤードしてゆく。


この作家が行うモデル化は、画面と対象に積極的に関わりながら、しかしモチーフを都合よく整理して絵の「ネタ」にしてしまう操作ではないだろう。むしろ及川において、対象のモデル化は、より対象に直接向かい合うための方法なのだ。ここで及川が興味を集中しているのは、氷・水あるいは草木というより半透明であること、あるいは半分だけ見えたり見えなかったりすることだと思える。氷は分厚く草木を覆い隠したりしない。水蒸気は濛々と視界を遮ったりしない。それらは薄く、幾重にか重なっても光を「半分だけ」通す。この知覚形式の微妙な折り目に接していく、不思議な現象を前にして、及川の作品は高い抽象能力を発揮していく。ジョージア・オキーフがかつて言ったように、抽象の煌めきのない絵画は無意味だ。そして世界から完全に切り離された絵画も存在しない。オキーフや及川聡子の作品を前にしたとき「抽象画」「具象画」という言葉がいかに粗雑かがわかる。


改めて「薄氷」のシリーズを見た時、ここで行われている墨による画面の切片化、幾重にも折り重なりながら「見え隠れ」する線あるいは面の構成は、優れて絵画における形式的課題への応答になっている。同時に、こういった試みが貧しさに陥らないのは、及川の抽象力が、世界を取捨してしまうのではなくむしろ世界にアクセスするための技法に昇華されているからだろう。人も鳥もコウモリも、虫やバクテリアもそれぞれにまったく違った世界をみている。しかし沼や池は幻なのかと言えばそうではない。人も動物も植物も、それぞれの知覚を通して、それぞれの知覚に還元しきらない「水」の存在を知る。例えどんなに目が限られた形式を通してしか周囲の信号を構成しなくても、その限界に意識的であれば世界を取捨する抽象ではなく、世界に入り込む抽象を獲得できる。我々はコウモリの見る世界を見ることはできないが、ある抽象化を通して世界に、自然に向かい合うことができる。及川の作品の向こうに「見え隠れ」する線・面が析出するのは、そのような世界に向かい合うモデル化なのではないだろうか。


「薄氷」のシリーズに対して、「水焔」のモチーフが湯気である事は、この作家の挑戦として興味深い。氷が薄く平らであり、原則的に動かない事に比べ、水蒸気はボリューム(マッス)があり、かつ運動している。これが絵画にとってどれほどチャレンジングなことかはすぐに了解される。ここでも及川聡子の抽象化の能力は存分に発揮されるだろう。いうまでもなくその力は湯気のボリュームや動きを切り捨てて文様にしてしまうことはない。紙への墨の染み込み、ぼかしはシャープな境界線の切り分けを特徴としていた「薄氷」と対極的なふくらみをもって、画面に複雑な「入り込み」を、襞を形成していく。「薄氷」の「見え隠れ」とは異なるこの「入り込み」は、ある達成と成熟を迎えつつある及川聡子という画家の、次のステップとして興味深いだけでなくある種の勇気を漲らせていると思う。

*1:アップロード時に誤って膠から上がると記述していました。ご指摘くださった方に感謝します