イメージ生成アルゴリズムのアイディンティティ・葛飾北斎展

いわき市立美術館で、野沢二郎展と併せて鑑賞した葛飾北斎の展覧会がとてもよかった。ホノルル美術館のコレクションということだが、素晴らしい水準であることに疑いない。日本初公開の柱絵「富士見西行図」が最初にあり、以下揃物、錦絵から北斎漫画までまとめて見ることができた。三井美術館や京都府文化博物館なども巡回した展示らしい。これを見逃さずいわきで捕まえることができたのはラッキーだった。保存状態、刷り状態のいいものがまとまっている。肉筆画もいくつかあって、僕の「北斎は肉筆画の画家ではまったくない」という持論を覆すことにはならなかったけれども、それでも北斎という画家について考える良い機会になった。


浮絵の「浅草金龍山観世音境内之図」や假名手本忠臣蔵の城中広間を描いたシーンなどは一点透視の遠近法の作図がそのまま使われていて、まるでCGのワイヤーフレームでも見ているかのようだった。北斎にとっての遠近法はあくまで「作図法」の一つである以上のものではない事は、以後の作例でこの技法を無視している事から類推できる。要はイデオロギーが付着していない(パノフスキー北斎あるいは浮世絵一般をある程度まとめて見ていただろうか)。北斎は−日本の優秀な「絵師」は皆そうだけど−古今の技法を実に形式的に一通り習熟して、画題や状況に応じてそれを取捨選択し、時に組み合わせる。北斎は多くの名前を使うが、そのことと彼にとっての「絵の技術」の交換可能性は無関係ではないのかもしれない。


東海道五十三次富嶽三十六景をこれだけの量見たのは初めてのことで、一般に有名なものから「こんなのまであったのか」という作品まで、どれも新鮮だった。「諸国瀧廻り」も含め、北斎インプロビゼーション的なアイディアの産出機械になっている。当時の刷り職人や彫りの担当者の技術の高さもあると思うが、データベース的な技法と形式の組み合わせによる新たなイメージの生成システムがあって、ここでは「北斎」という名前は個人の称号というより図像生成装置のアルゴリズムに近いのではないか。無論、これは北斎という人の才能を無視した話ではない。例えば映画やアニメーションが多数の人々や複数の技術による共同作業の成果であることと、にもかかわらずそこで「作品」というまぎれも無い個別の輪郭をもったものになるために監督や演出家という特定個人がどうしても必要なことと同じだ。


思わずアニメーションの例を出したが、北斎が浮世絵における産業的イメージ製造を経て肉筆画に拘ったことから、僕は庵野秀明エヴァンゲリオンの成功のあと実写映画に移行し、さらに旧作のリメイクを空前の「自主映画」として始めたことを連想した。そして、その迂回路としての「肉筆画」「実写映画」と北斎庵野が不幸な関係しかもてなかったことも想起した。自らがイメージ作成マシンと化した「絵師」は、どこかでその「自動運動」から距離を持つ必要に迫られる、と考えると両者に対する誤解になるのだろうか。北斎の肉筆画の凡庸さというのはある意味凄くて、今回見ることのできた「竹屋の渡し雪景図」なども丁寧で繊細であるにも関わらず浮世絵での“けれん”が全くない。それは才能がないというより、浮世絵の世界での執拗な「けれん」欲求/消費構造からの自己防衛のような側面があるのではないか。


今回の北斎展で思い出される作家としてもう一人伊藤若冲がいたけれど、北斎を見ていると若冲がいかに世俗的浮世絵というものを当時のハイコンテクストである肉筆画に移し替えていくことに心血を注いだかはよくわかる。長大判錦絵の「雪松に鶴」「滝に鯉」、竪中判錦絵の「鷽と垂桜」等を見ていると、これをそのまま精緻に手書きで描くことで若冲的な世界観が形成されることが分かる。別のいい方をすれば、浮世絵と肉筆画のヒエラルキーを信じているのが北斎だとも言える。北斎は肉筆になると画題や構図や描画に対し実に規範的な姿勢に戻る。あの浮世絵でのデータベース的過激さが無くなる。


百人一首を題材にしたもの(歌から絵への直訳っぷりが笑える)や諸国名橋奇覧も印象的だ。あと、良くなかったというより別の関心が湧いたのだが、琉球八景のシリーズがまったく冴えてなくて力がないのが目立った。力作揃いの大判錦絵の中にあって、このシリーズだけが穴になっている。同じ北斎とは思えないくらいだ。恐らく琉球という遠隔地を、どの程度勝手なイマジネーションで描いていいのかという感覚が上手く働かなかったのではないか。東海道とか富士山とかなら、別にその土地を知らなくてイメージで遊んでも「そこまではアリ」という線が想定出来ていたのだと思う。またそういう作例はなかったけれども、例えばヨーロッパやインドを描くのであれば、これはまったく荒唐無稽に攻めることができたような気がする。だが当時独立した王朝を持ちながら中国と日本の間で二正面外交をしていた琉球には、そのような距離の取り方が難しかったのかもしれない。無論ただの類推だけども、こういった想像が広がるのも面白かった。