田代一倫写真展「はまゆりの頃に 2012年 秋」
田代一倫写真展「はまゆりの頃に 2012年 秋」(photographers’gallery, KULA PHOTO GALLERY)で見ることのできた、路上や室内で、ひとりの人物がフレームのだいたい中心に、全身が入るように立っていたり座っていたりするプリントの十数枚、また多数のインクジェットプリンタでの出力を厚い冊子状にまとめて(こちらは写真下部にモデルから聞いた話や撮影状況などをコメントしてある)テーブルに置いてあったもの。それらには不思議な、あるいは奇妙な時間や空間があって僕を惹き付けるのだけど、その時間や空間は何によって作られているのだろう。田代の写真は一見して目立つような、激しい何事かが写っているわけではない。だが、枚数を見ているにつれて自分がその個々の写真の前で立ち止まってしまう他ない力を感じる。これは被写体の力なのか、写真の力なのか、双方の関係の問題なのか。関係、と言ったとして、その関係はどのようにプリント上に作られているのか。
「はまゆりの頃に 2012年 秋」での写真*1は、上記のように、全て縦長の構図のほぼ中央に、路上や仕事現場、遊び場、住宅地、室内などにいる一般の人をおよそ全身が入るような距離から捉えたもので、人物像の周りに周囲の状況が写りこんでいる。港湾で働く人ならば海や堤防等が写り、畑で農作業をする人なら収穫物や農機具が写り、飲食店の客引きの人が写っているならば同時に繁華街の様子が写る。住宅の周囲で撮られたものならその家の様子が写り、室内で撮られたものなら生活の様子が写る。光の状態も個別の環境によって変わるが、だいたいの人がカメラの方を向き、レンズを見ている。その顔は親しげな時も、あからさまに警戒しているときも、そのどちらでもない曖昧なものもある。
町中で、港湾で、住宅街で、農地で、カメラを持った青年が一人歩き回っていて、町にいる人、あるいは通りがかった人に写真を撮らせてもらえないかと声をかけている姿を想像してみる。急いでいる人なら断るだろう。時間があれば承諾するだろうか。しかし、どんな目的で撮影されるのだろうか。怪しい、例えばインターネットの広告のようなところで使われるのであれば嫌だし困る。また、写真を撮ることはきっかけに過ぎず、そのあと何かしらの勧誘、商材の売り込みだったり新興宗教の勧誘のようなものが始まっても面倒なことになる。ごく普通に考えて、時間があっても断るのが最善な気がする。しかし同時に、声をかけて来た人がなんとなく信頼できそうに見えたら少し考えを変えるかもしれない。例えば、その人が持っているカメラが明らかに立派な、プロが使いそうなものであれば、普段なかなか機会がない「良い」写真を撮ってもらえるかもしれない。あるいは、断る事が面倒、という気持も湧くのかもしれない。一枚撮られて終わりになるなら終わらせろ、といった投げやりな感覚が働くかもしれない。
撮影者とモデルの間にある感情がどの程度親密なのか、あるいは緊張を孕んだものなのかは写真を見て想像がつくこともあるしつかないこともある。ただ、田代はどのようなモデルとも等価に向き合っている。数歩離れた場所でカメラを構え、基本的にモデルと正対して、全身が収まるように、シャッターを切る。けしてスナップ的ではない。相手が撮影を了承してから田代が実際にシャッターを切る迄の時間は様々だろうが、田代はあるフォーマットが守られる様に構図を整えている。この「整える」という時間が、そしてモデルの全身をフレームに収めるような場所迄動く距離=空間が、僕が最初に「不思議だ」と感じたものになっているのではないだろうか。少しだけ時間が経過し、少しだけ離れる。この「少しだけ」の時間と空間が、「はまゆりの頃に」というシリーズの写真を作っていると、とりあえず言えると思う。とはいえ、何が不思議なのか。
光の状態や厳密さを保証できない距離及び構図、そしてそのたびごとに異なるモデルとなる人々との関係。こういった条件を、しかしある一定のフォーマットにおおよそ組み上げていく、その所作が田代の写真の骨格になっていっていることは間違いない。条件=環境+関係が、そのまま写真の構造になっていること。その結果、画面に定着してくるものを考えてみよう。田代の写真に写っているのは、全てと言い切ることはできないかもしれないが、大部分が「何かをしている途中に、その何かを中断」した人であるように思う。働いている人が相対的に多いが、釣りをする人や子供もいる。いずれにせよ、ある何事かに自分の意識を向けていた、その途中に田代は介入し、おそらくは何がしかの交渉をし、承諾を得て、シャッターを切っている。撮影の事前と事後に、長い、あるいは短い、モデルとなった人や周囲の人とのやりとりがあるらしいことは、プリントされ額装された作品ではなく、出力され冊子にまとめられたものに、やや長めのキャプションのように記述されている。
田代の写真作品に受ける感覚がどこか「不思議」なのは、この「行為の中断」に起因しているように思う。仕事であれ遊びであれただ歩いているときであれ、何かをしているとき、その人はその行為=目的にかなりの程度一体化している。農作業をしている人はそのまま農業者であり、会社の仕事をしている人は会社員であり、飲食店の仕事をしている人は従業員であり、家事をしている人は家庭人であり、釣りをしている人は釣り人であり、遊んでいる子供は「子供」だ。それぞれの人が、それぞれの町の中の適切な位置に収まり、立場を媒介して周囲の環境と連結している。ところが、田代に撮影されるとき、モデルとなる人は一度自らの「為すこと」を原則としてやめ、カメラの方を向き、少しの間止まっていて、シャッターが切られるまでの短い間「何もしない人」になる。この「何もしない人」は、服装や、周囲の環境から、元々「何かをする人」、即ち働く人であったり遊ぶ人であったという属性が読み取れるのだけれども、画面のこちらに向かっている写真に映った「顔」には、何かをする手をわずかに止めてカメラを見た、その瞬間に訪れる「何者でもない人」の徴が現れているように思う。そのとき、彼等・彼女等は、周囲の風景と役割や立場を介さずに並列に並んでいる*2。
住宅の前で半身を家の方に向けつつ、顔だけこちらを見ている男性の写真は、冊子にまとめられているものの文章によって、福島第一原発で避難地域に指定された地域の個人の賠償額を査定する仕事をする人だということが了解される。小奇麗な住宅が、しかし明らかに荒れた(雑草が伸び放題であることがわかる)状態にあって締め切られていて、そこに事務的な仕事着を着た男性が立っている、という写真なのだが、この、小奇麗に化粧された住宅+荒れた庭地という環境が、しかし男性の、作業を一瞬中断したところの様子と、「役割の中断」というところで共鳴している。この写真からはフィクショナルでもあり、しかし同時にリアルな感覚が浮かび上がってくる。言い換えれば、「現実的でない現実」が表出している。
僕が田代の写真に惹き付けられるのはきっとこの点だと思う。そこには「現実的」なイメージがあるのではなく、きっと「現実」が垣間見えている。人がある役割に没入している、その時その人は、そしてその人を見る者は、周囲の環境と滑らかな、「現実的」イメージ関係を結ぶことができる。公園にいる親子は「現実的」イメージだ。会社にいるスーツの男性は「現実的」イメージだ。港湾にいる漁師は「現実的」イメージだ。ところが、田代に声をかけられ、逡巡するなり即答するなりして、田代の求めに応じて、田代が数歩離れた所で構えたカメラを見つめた時、その人は既に自分の役割から意識を離している。身にまとった、今までその人が従事していた目的や(社会的)位置が、ごく短い時間であるけれども中断される。被写体は別に環境から切り離されたのではない。ただ、その足下に落ちているコンクリート片のように、本来あった目的や立場から意識が離れてしまっているだけだ。
田代は「被災地の現実」を撮ろうとしていないだろう。むしろ「被災地の現実」とはほどよく了解された、流通可能な「現実的イメージ」でしかない。田代一倫という写真家は、いわば徹底して礼儀正しく、対象となった地域に住まう人々に関わり、承諾を得た人だけ、数歩離れた距離から端正な写真を撮っている。その前と後に話を聞き(あるいは聞く事もできず)、言葉を交わして(あるいは交わす事も出来ず)シャッターを切っている。この踏み込まない繊細さ、離れすぎない態度、そういった田代の倫理的姿勢から生み出される撮影時の体の態勢が、「はまゆりの頃に」という“写真体”のフレームを決定している。その形式的ともいえる持続の総体が、大量の、役割を少し中断した顔の集積となってきている。中断、中断、中断、中断、中断…*3。
「はまゆりの頃に」のシリーズで見る事ができる写真は、とても直接的に、撮影された場所から離れている僕に作用する。写真が引き起こす基本的な事態だけれども、被写体との関係において、カメラの占めていた場所に観客が位置する、ということがある。これは一般的な写真であれば常にあることだけれども、被写体がカメラをみつめている、田代の写真には特に強くこの関係が働く。何者かであることを僅かに中断して、役割を介さずに周囲の風景と共にある沢山の顔を見ていると、「はまゆりの頃に」で見ることのできた、「現実的イメージ」ではない「現実」が、自分の今いる場所も含んでいることに、だんだん気づかされてくる*4。思えば東日本大震災のあったあの日、僕も普段の役割から解除され、機能を止めた都心のビルのカーペットの上に段ボールを敷いて、帰宅出来なかった家にいる家族とも切り離されて一晩を過ごしたのだった。「中断」は、また、不意に僕に訪れるのかもしれない。もちろん写真の撮影がもたらす中断と、巨大な自然災害のもたらすそれは別のものだ。それでも、田代一倫の提示する、普段仕事や役割に自らを振り向けている人々が、ふとそれを手放して「こちら」を見た僅かな時間の積層を前にした時、この別々の「中断」が不意に連続してしまうような感覚がある。
*1:田代は2011年から同シリーズの写真を撮影し続けており、展示も数回に及ぶ。この撮影は今春迄続くと予告されている。
*2:田代の「はまゆりの頃」のシリーズ写真における、前景と背景の区別の無効性に関しては、甲斐義明が「スペクタクルに背を向けて」(ART CRITIQUE n.03,2013年)で指摘している。
*3:「役割の中断」と大きな震災の関係に関しては、ひきこもり研究家の上山和樹がブログで言及している。http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050712/p10
*4:この展覧会で見られる写真の「地続き性」について、画家の水野亮はTwitterで発言している。https://twitter.com/drawinghell/status/292757180317327360 ここで水野氏が田代一倫の「平等性」についても触れていることに注意。