組立-転回を更新(追補:グレコにおけるポストモダンとキャラ)

上田和彦さんと進めている組立-転回の「対話」を更新しました。


今回は東京都美術館で開催中の「エル・グレコ」展について話しています。前半が「超越と近代の螺旋階段(あと漫画)」、後半が「異なる場を来たらしめる通路」となっています。あと「しゃべり抜け」として補遺があります。


以下は組立-転回を離れた、今の永瀬の個人的感想のようなものです。


編集しながら思ったのですが、ビザンチン様式から捉えられる超越性とモダニティの問題、また上田さんご指摘の「通路」構造といったハードな話題と併せて、マンガやアニメの話がばんばん出て来ます。主に永瀬が話しているんですが、上田さんも「しゃべり抜け」のところでRPGゲームを引き合いに出されている。また永瀬はやはり「しゃべり抜け」で村上春樹を出していますが、これも江藤淳が否定的(フォニーという言い方をしましたが)に、東浩紀が肯定的(ゲーム的リアリズムとして、ライトノベルの起点に位置づけた)に評価した意味での「サブカルチャー」として出て来たように思います。


なんでかなと思ったのですが、たぶんエル・グレコの絵ってある程度「大量生産品」なのかもしれないとおもいました。無論油絵ですから全て一点ものなんですが、グレコは売れっ子として人気があった画題や構図はどんどんコピーを描きます。また作品の構造も、一度掴んだものは躊躇無く反復する。祭壇画もそうです。またスピーディーに、人物像などは類型化を畏れずパターンで描くところがあって、かつそれが貧相に見えないようにポーズや身体の比例の引き延ばし等を行う。それが「マンガ的」にグレコを見せている。


要するに、いわばブラッシュストローク、あるいは上田さんの言うマチエールの物質的な現れにおいてグレコが「モダニティへの通路を開く」のと同時に、いわばその生産-消費のサイクルという側面において、ポストモダン(ポスト工業社会)の徴候すら見てとれるかもしれない、ということです。対話中、笑いとともに「聖ヒエロニスム」について色々話していますし、また「福音書記者聖ヨハネ」もそうなのですが、ここでグレコは聖人を一種の「キャラ」として捉えているように見える。結果として「ジョジョ立ち」のようなポージングが形成されている。


対話中では日本の漫画家が西洋の古典美術をリファーしている、という言い方しかしていませんが、いわばプロダクト、あるいはビジュアルコンテンツの製造-流通-受容といった下部構造的な部分で、当時の「市民社会」の形成とパラレルな条件がエル・グレコの作品に刻印されているかもしれないと(これまた電波に)考えました。いずれにせよ、アクチュアルな展覧会だと思います。