彫刻の経験・アーティストファイル展での利部志穂

国立新美術館のアーティストファイル展で利部志穂の作品を見た。面白くて、しばらく眺め、歩いていた。この作家の作品は2008年のなびす画廊の個展がもの凄く良くて(参考:id:eyck:20080731)、その後、しばらく間を置いた2011年の所沢ビエンナーレの作品はつまらなかった(参考:id:eyck:20110918)。その振幅が、なんというかメチャクチャで、あんな面白い作品を作ったひとが、あんな空振り三振をするなんて、いったいどういう作家なんだろうと奇妙に思っていた。僕が所沢ビエンナーレの作品で一番疑問だったのが作品と重力の関係で、基本的に安定した積まれ方をした金属籠に部分的にシンバルのようなパーツが組み込まれ、全体に風船を多数ひもでくくりつけていた。多少の構成の工夫はあるものの、拍子抜けするぐらい単純な構造の作品で、そこを歩き回っても、変な言い方だが安心感しかない。なびす画廊の圧倒的に複雑な空間の入り込み方と、上へ上へ鋭く展開しつつ次々に別の要素に連結し、また切断し、また関係を産むというバロック的な過激さを形成したのと同じ作家の作品とは思えなかった。


今回の作品は、国立新美術館の大きな、天井高のある部屋に一定の間隔で金属のバーを渡すことで、いわば架空の天井を作り出し、そこから下の観客の入る場所の上下を攪乱してしまったかのように見せていて、これがとても効果的に作品のテンションを支えていたと思う。言ってみればあの金属のバーが形成する架空面が水面のようになっていて、会場に入ったとたんプールの底に入り込んだような感覚になるのだ。床には白く塗られたペットボトルが縦に重ねられていたり、透明な元ペットボトルかと思える、熱で変形したかのようなポリエステルのぐにゃぐにゃのものがあったり、何かの金属部品や針金が置かれていたり(一度踏んでしまった)、家庭用の棚が組み合わされて立っていたり、青焼き用の紙?と思われるもののロールがくしゃっと大きいボリュームを形成させられていたり、また床に斜めに広げられ壁へガンタッカーで固定されていたり(その上に更に何かの紙片が貼られていたり)、さらにそのロールが解けないように固定され立っていたり、金属籠のようなゴミ箱に金属棒が立てかかっていたり、床の通気穴にプラスチックの棒が刺さっていたりする(まだまだある)。上に渡された金属バーにも針金による造形物(くにゃっと曲げて作られていたりする)が掛かっている。またバーの上には大きな三角型の白い布が壁から長く張り出して何枚かづつさがっている。


その中を、足元を気をつけ、頭上を気をつけ、身の回りを気をつけながら歩くことになる。細く、微妙なバランスで成り立っている構成要素が多く(たけかけられた棒、仮止めされているだけの紙、固定されていない小さなもの、針金)、自分の身体がそれらに触れたらすぐに作品を損ねるか動かしてしまいそうになるから、映画ミッション・インポッシブルで主人公が赤外線のセンサーか何かが張り巡らされた場所をそれに触れないように進むシーンみたいな感覚を持つ。子供を持った母親(としての作家)がひとりになれないこと(常にこどもといざるをえないこと)、自分が母親(ママ、ハハ)になっている中で感じたようなことがやや断片的にコメンタリーとして貼られている。そこから作家の個人史を作品に読み取りそうになるし、作品名が「ブルーアワー/タマがわ、たった火」とされているので、どことなく色んなゴミが捨てられた川の底のような感覚も得るのだけれども、作家は同時に「物語やイメージは信じない」とも言っていて、どことなく喚起されそうになる「作家の物語」や「水のイメージ」は間接的に禁止され、宙に浮く。自分は視線を会場中に、それこそセンサーのように投げかけつつ進む。遠くを意識すると近くのものが体に触れそうになり、足を運ぶ先を気にすると目の前のものに不注意になる。数人の係員の人が、観客が作品に触れたりしないように監視している(数回注意された)。


最初、ぱっと会場を見た時に感じる、ある種の密度の薄さは、実際に空間を歩き回ってみると別の様相となって現れる。細い棒は、実際はその周囲にある一定のボリュームゾーンとして「注意」しなければいけない領域を作り、細く曲がりやすい針金は眼にはまったくインパクトを持たないのに、近くを歩こうとするとやはり見た目以上の存在感を持ち始める。なびす画廊では、あまりに高密度にいろいろいなものが詰め込まれていたため、空間が圧縮され畳み込まれていたが、ここではむしろお湯をかけられたインスタントラーメンの「かやく」みたいに、実際にあるモノがその輪郭を膨らませ身体的なボリュームを形成する。さらに面白いのが壁面に細く縦に、またある場所では横に貼られた鏡で、歩き回る中でふとあるポイントに来ると、横に伸びた鏡に中空のバーが映り込む。また縦の鏡に自分が立っている周辺の空間が映る。結果、空間がそこだけ限定的に急に倍の長さに拡張される。だからこそやはりこの空間が架空の「タマがわ」の川底にしか見えなくなるのだけれども、利部志穂という作家の犀利なセンスは、この鏡が限定的に、一瞬しか機能しないようにしていることにある。イメージは像を結びそうになりながら消えてしまう。鏡がもし全面的に貼られていれば、確かにインパクトは強まり「わかりやすく」なるだろうが、それではあまりに作品が視覚に従属してしまう。いわば「ちらり」と鏡が機能することでこの作品が喚起する空間は脳内でずっと奥行を持つことになる。彫刻の経験、というものがもたらす(つまり「絵画」の経験とはまったく異なる)ある閾値を超えた感覚を覚えて、ちょっとびっくりした。僕は所沢ビエンナーレで何かを見落としていたのだろうか。それともこの作家は何かどこか僕の把握できない幅のようなものを持っているのだろうか。


そうかもしれない、と思ったのは別室の「DANCING MOONS」という妊娠中の女性(作家自身?)を捉えたと思えるビデオを中心とした作品と「ママとハハ」という紙による彫刻、木材や家具による食卓を想起させる作品を組み合わせたものを、前に設置された柵ごしに見たときで、率直に言って妊娠した女性のプライベートな感覚をなぞらせる以上のものには見えなかったし、さらにナディッフで書店の前に形成された、多数のスリップ(本に挟んである販売管理用の紙)、ダンボール、クッション材などで形成された作品も、店内に張られた紐に紙で鳥のように見えなくもない(あるいは植物?)ものを連ねてある水平な飛翔感覚を生んでいるところ以外は半端にみえてしまった。僕が利部志穂の作品を、今回の国立新美術館ナディッフの展観をあわせまだ4回しかみていないが故なのか、そもそも「ホームランか三振」みたいな作家なのか判断に苦しむのだけど、でもやっぱり「ホームランか三振」タイプの作家なんじゃないかと思う。別にこれは否定的な話ではない筈で、要は作品がその都度の跳躍というか実験として形成されているということの証なのだと思う。見事なプレゼンテーションとしてしか機能しない作家は疑うに足る−とはいえ利部志穂はやはりそのふり幅が極端に広いのだと思うけれど。今回の「ブルーアワー/タマがわ、たった火」にしても、あえて言えば作品のテンションをあまりに頭上に渡された金属バーの形成する面で支えすぎで(あの圧力がなくなると、そこここに配された個物の形成する空間が上に逃げてしまい、急に弛緩したものになってしまう)、その意味ではやはりなびす画廊の作品の方が構造的な複雑さは上だったと思われる(しかし同時に今思えばなびす画廊の空間に対する天井の低さがあの作品のフレームを規定していた)。


利部志穂という人の、彫刻家としての力量を端的に表していたのが、全体としては今ひとつピンとこなかった「ママとハハ」の中の、紙で作られた鶏の彫刻で、この作品単体だけで取り出せば作り手の才能の恐ろしく古典的な現れだと感じる。こういう生き生きとしたマッスを形成できるところが利部志穂の確かさの裏づけで、「三振」した時に見てしまうとイージーインスタレーション作家とも受け取られかねない。けれども、けしてそうではないことがよく分かる。見に行ってよかった。