代表的スタイルから離れた純度の燦めき/クラーク・コレクション

なびす画廊での「許された果実」展を二回目に見に行ったとき、出品されている杉浦大和さんがいらして、三菱一号館美術館の「奇跡のクラーク・コレクション―ルノワールとフランス絵画の傑作」展がとても良かった、と言っていて、その時の杉浦さんの表情が充実した、幸せそうな感じだったので、半ば杉浦さんの「顔」に誘われたように行ってみた。行ってよかった。本当に充実していた。僕はルノワールという画家にほとんど興味がなく、むしろポーラ美術館で見た彫刻が好きだったのだけど、今回のクラーク・コレクションでのルノワールで、初めてその「絵画」にぐっと来る経験をした。ルノワールといえば女性像、ということになるのだろうけど、僕がいいな、と思ったのは風景画と静物で、とくに風景画に関してはこんなにきらきらとした、輝く絵の具の感覚は他の印象派にも見られないと思う。


ヴェネツィア、総督宮」などは見ていてなんか眩しい。目が痛みそうなくらいの、水辺の太陽光の反射の感覚をけして大きくはない画面上で実現している。僕はルノワールは基本的なところで「通俗的」な画家だと思っていて、それは今回の展観でも変わらなかったのだけど(それを言うならモネだって通俗的だ)、「ヴェネツィア、総督宮」を含めた風景画、静物画も同様だと思う。そして、最良のルノワール(やモネ)の通俗性は、心底素晴らしいと思える。「日没」などはそのような通俗性を残しながらも相当程度違うところまで画面を持って行っている。「ナポリの入江、夕刻」まで行くと通俗性が勝ってしまっているけれども、やはり絵の具のフレッシュな感覚は定着していて、笑いがこぼれそうになりつつ悪くないな、と思える。


「通俗性」というのは、簡単に言えばイメージの了解可能性、いわば未だ見ぬ「観客」の視線を「このようなものだろう」と想定(仮定)し、その枠組みをある種の踏み台にして画面を構成する態度だと思うのだけど、ルノワールはその通俗性を十全に使いこなし、そこを基盤にしてタッチが生み出す色彩の感覚を生々しく、「今」立ち上がったように定着する。実際、これらの絵が130年も前に描かれたとは上手く了解できない程だ。驚異的なことだと思う。「タマネギ」の、これから調理して食べられそうな感じも、画面上で必要最小限の、左上から右下へ行くタッチで色彩と形態の際どいところを的確に突いている。「自画像」はどこかマネっぽい感じもする絵で、いわゆる「ルノワール調」ではない、実直な良い作品だ。子供の頭部の習作をいくつも描いた絵はルーベンスの子供の習作を彷彿とさせる(でもルノワールらしい明るい白をクリアに使ってる)。もしかして、ルノワールって女性を描かない時が一番素晴らしいのではないか。


そしてドガ。4点しか来ていないが、いずれもとても良い。ことに「レースの前」という、競馬場の風景を捉えた、けして大きくはない作品が凄い。多分取材とマイブリッジを含めた写真の活用があるのだと思うのだけど、複数の馬の的確なデッサンに基づきながら、まったく堅苦しくない、絵の具で馬と騎手の動きをすくい上げたような生々しさ、とくに主となる馬の毛並みの艷やかさを表すハイライトの白の置き方が感動的でもある。これが屋外の写生的制作ではなく、アトリエで描かれたということが信じがたい程だ。大きな「男の肖像」はやや地味だが堅実な力量を感じさせるし、自画像もキャンバスに裏打ちされた紙に描いたことによる油絵具の「引き」が悪くない効果になっている。むしろ代表的なモチーフとなっている「稽古場の踊り子たち」の狙いすました構図、とくに大きくあけた左下の大きな床面の処理は十全な成功とは思えなかったけど、逆を言えばこのような反復的主題でもドガが実験的な試みを忘れていない証拠かもしれない。


コローも「いかにもコロー」といった趣の「ボッロメーオ島の浴女たち」よりも、明快な色彩とタッチによる、ちょっともコロー的でない「サン・タンジェロ城、ローマ」が、画面の染まりがなくビビッドに見える。「ボッロメーオ島の浴女たち」は、影を作る大きな樹木の葉のボリュームと、そこを通過した光の表現が画面を均一の色相とヴァルールに覆ってしまう。この「雰囲気」の良さがコローの才能、と言えばそのとおりだと思うのだけど、数枚も見ると僕はあの独特のテールベルトあたりの絵の具に染まった空気感に息苦しさを覚える。その点、「サン・タンジェロ城、ローマ」は幾何的な形態をもったサン・タンジェロ城が照度の高い太陽光にくっきりと切り出されている様子を適切な色彩の構築として明晰に描ききっている。こういう、いわゆる「独自のスタイル」から離れたところでその画家の本当の実力は見えてくると思う。


ピサロもいい。「道、雨の効果」は、濡れた道の光の揺れを、タッチを混濁させることなく(要するに最小限の手数で)描いている。「ポントワーズ付近のオワーズ川」のきらきら感はルノワールのそれとは全く異なる感じだけど、やはり雲のきらめきを表す白が色彩を殺すことなくピュアな「光」として機能している。ピサロもそうだし印象派全体に「光の絵画」といったキャプションが会場にあったけれど、「ルーアンの港、材木の荷下ろし」の魅力は中央に黒々と描かれた貨物船の造形の複雑さ、面白さで、けして「光」だけでピサロの絵が見られるわけでもない。「モンフーコーのピエットの家」の雪の表現はシスレーの「モレのロワン川と粉挽き場、雪の効果」と面白い対照を示す。以前見たモネの雪景色の絵を思い出しもしたのだけど、陽光のイメージの強い印象派の画家達の描く雪の表現は細かい差が面白い。


こうやって書いていくと切りがない。ロートレックの油彩が二点きていたのも収穫だったし、ボナールが1点、最後にちょこんと置いてあったのも(これもいわゆるボナール的な絵と少し違っている)良かった。ミレーはどうしても面白いと思えなかったし(画面が幅の狭いトーンで均されているのが気になる)、いわゆるサロンのポンピエ絵画などは「最悪の通俗」を見せられる感じで目を閉じて通り過ぎたくなるけれども、やはり全体に高い質の作品が凝縮して、純度高く展示されていた。もうすぐ終わってしまうけれども、見逃さずによかった。