あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


すっかりブログの更新頻度が落ちている。生活をし、子供を育て、制作をして組立の企画を進め、合間にART TRACE PRESSのお手伝いにも関わらせてもらっているとはいえ、それらだけが理由ではない。文章を書くことへの関心は変化していない。むしろその質みたいなことへの興味は高まっている。正確にいえば、作品について何か書くことへの緊張感の純度みたいなものは上がっている。こうなると、以前のようにブログをどんどん書いていく「体制」みたいなものが崩れてしまう。


昨年、印象に残っているのは多摩美術大学の院生の展覧会「呼ぶ、呼ぶ、呼ぶ」(良い展覧会でした)(参考:http://yobuyobuyobu.blogspot.jp/)での松浦寿夫さんと林道郎さんのトークだ。お二人に「美術を教えることは出来ると思いますか」という、やや生意気な質問をした。それぞれに実践的なお答を頂いた。林さんは、美術史を学ぶという学生には、とにかく画集を片っ端からスキャンして、データをキャプションしてデータベースを作れと言うと言われた。複製でもなんでもいい、かつて制作された図像のイメージをどのくらい自分がストックしているか、それが美術史を学ぶ人には重要なのだと。


松浦さんも、いろいろお話をしてくれた。文章を扱う(芸術学科の学生のような)人には、言葉が、彫刻の石や絵画の油絵の具のように、自在に扱うのが難しい抵抗感のあるマテリアルであることを知るために外国語を学ぶことを勧める(母語でも十分自在に扱うのは難しいのだが、そのことに気付くのは難しい)、といった話も非常に示唆的だった。が、他者の作品を分析する重要性にも触れられた。曰く、自分の作品を他人の目で客観的に見ることは大変に難しい、その時に、別の人の作品を深く分析することは(自分の作品を客観的に見るためにも)有効である、ということだった。


制作も、文章も、全体で制作の別局面として考えていた僕にとっては勇気づけられるだけでなく、文章を書く、ということが新たな制作面として見えてきたコメントだった。自分の作品を他者の目で見る、ということは、作品にまとわりついている、自分の先入観や思い込みや感情を取り払ってみる、ということでもあるだろう。でも、作り手であるからこそ、そういったものは自作と一体になっていて取り払えない。では、他人の作品を見るときはそういう先入観がないのかといえば、やはりある。作品分析は、そういった先入観を取り払う作業でもある。


無論それが他人の作品であるならば、先入観を取り払うのは比較的容易ではある。しかし、それはある「深度」を超えると十分難しくなる。自分が物を見る、その体制自体が疑わしくなるからだ。しかしそこを踏み越えることができたとしたら?自作を客観的に見ることが、同じようにできるとは言わないまでも、一つの橋頭保になる。作家が自分の作品を冷静に見る困難はなくならないけど、壁を登るボルダリングの手がかりのように、人の作品を考える事はどこかで自分の作品を考えることにも繋がる。


自分の「体制」を組み替えること。その試みは、上田和彦さんによる厳しい「組立」批判から始まった「組立-転回」でも持続しているつもりでいる。なんと2012年11月30日から始まった「組立-転回」は、足かけ13か月を超えて、今年3月の展覧会まで続行される。その行方は、僕自身にも想像できない。関心をもって下さる方は、ぜひ展示も見てください。ブログも、適宜更新していこうと思います。


■組立-展開

  • 展示に合わせて書籍「組立-展開」発刊予定
  • 会期中、対談企画「自己教育としての美術 なぜ作家が企画を立てるのか?」開催予定