生きている絵画・小針克弥の絵画

重なる、混ざる、踏みとどまる、少しだけ重なる。にじむ、盛り上がる、つるりとする、平滑に光る。透ける、ちょっとだけ透ける、むらになる、覆い隠す。隙間ができる、筆あとが残る、濁る、鮮やかになる。曲がる、細くなる、まっすぐ進む、いきどまる。滑る、ひっかかる、かすれる、広がる。小針克弥の絵画ではいろんなところでいろんな事が起きている。かならずしも大きいとはかぎらない画面で、あるいは十分に大きな画面で、どちらであっても同様に、その色彩は、マチエールは、つまり絵の具は、全部の場所で全部の出来事を記録している。


網目状の広がりは、しかし、その形体あるいはイメージに、画面のタッチや絵の具の在り方を従わせるようなものではない。むしろその形体やイメージは、それを手掛かりとして絵の具をにじませ、盛り上げ、平滑にし、といった絵の具の「在り方」を導き出すための水路のようだ。そして、その水路を通り、淀み、くぐり、溜まっていった絵の具達は、いつしかある広がりを画面に開拓する。水路としてのイメージや形態もまた、絵の具に従属しているわけではまったくない。そこに絵の具が満ち、浸みとおり、互いにわずかの隙間を挟み、あるいははっきりと折り重なりながら、やがて絵の具と緊密に結びあい、画面を四方へ広げ、あるいは奥行を掘削し、空間を手前に拡張する。まるで未知の昆虫が壁面に奇妙な繭を、蛹を、卵を、巣を展開したように、小針の絵画は生成する。


生成する感じ。生まれ育つ感覚。小針の絵画にはそれがある。キャンバスに置かれているだけの絵の具が息づいている。まるで画布が呼吸をはじめ、空気を通し、中で何かが代謝し始めたような生々しさ。そこにスタティックな「完成」の気配はない。あるいは、この画家にとっての完成は画面の停止ではない。一枚の画面が膨らみ、ゆっくりとほどけ、複雑に絡まり合い、その隙間を大気が移動し始め、その循環が新生児の呼吸のように動き始めた、その力動が十分に達した、その段階まで育った時、恐らく画家は筆を止める。これは簡単なことではない。


画面のいたるところで溶き油を調整し、ステインに近い処理をしたところからわずかにエッジを残して上からフラットな色面を形成する。隣接して今度はフラットになっている色面にブラッシュストロークを残して絵の具を置く。ある色面の隅では下の層をのぞかせながら反対ではそこを踏み越えて塗りつぶす。ステインにステインを重ねる。こういった微細な効果が繊細に、しかし同時に感覚的に展開している。画家は大きな構図を決めたまま、しかしそれに縛られすぎることなく、それを一つの「水路」として、さまざまに絵の具を置いていく。それは生成的というよりも音楽的というべきなのかもしれない。マチエールと色彩とテクスチャが一体となった「トン(調子)」。そしてその相互の隣接のさせ方。室内管弦楽の音色達。小針は画面で起きていることを全て聞きとっている。そのトンの一つ一つの重なり、離れ方、強弱を逃さない。


この画家の自信は、部分的に色彩を殺すこともそれほど厭わない点に見てとれる。画面のすべてを生かそうとすると、恐らく画面は十分に「生きない」。アポトーシスが細胞体を初めて造形するように、作家は適切に画面をトリアージしている。そのすべてが成功しているわけではないだろう。金属やアクリルに描かれた作品は実験の域というべきだろうし、エッジをおおよそ同じ強度で揃えた「赤と黄色の縞」という作品はその「強さ」が画面を止めてしまっているように見える。小針克弥の真の「強さ」は弱さを堂々と展開したときに発揮されるようにも感じたが、そこまで断言できるほど僕はこの作家を十分に知らない。作品がもっと見たい。ART TRACE GALLERYでの展示は今日で終わってしまった。