死後の世界の文字としてのキトラ古墳壁画

キトラ古墳壁画を、東京国立博物館で見ていた。平日の午前中に行って、館外40分待ちの館内20分待ちくらいだったのだから、大混雑といわれたこの展覧会のコンディションとしては比較的良好だったんだろうと思う。7世紀末くらいから8世紀に造営され描かれたというキトラ古墳壁画は、世界史的にはそれほど古いものではない。ヨーロッパではカロリング朝美術(このようなキリスト教会絵画http://blogs.yahoo.co.jp/flowinvain/19761816.html)とかが展開してあの抽象度の高いロマネスクを準備していたわけだし、中国では唐が高い文化を形成している。とくに唐、朝鮮半島キトラ古墳との関係で念頭においておくべきだろう。例えば法隆寺百済観音の、和様化されていない、一種異様な造形は北魏の仏像を見ることで理解できる(以前ある人から教えられた)。当時文化的には大陸・朝鮮半島から遅れていた(輸入国だった)奈良朝のキトラ古墳壁画も、唐の絵画の達成(例えばこの仕女図とか。http://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/past_17_to_index/#cnt_3)をイメージする必要があるのだろう。


展示は十分工夫がこらされていた。もちろん保存のために小さく切り取られたキトラ古墳壁画だけでは会場がもたない、ということもあるだろうけど、僕が感心したのは石室の各壁面を精巧に再現した模造壁面で、技術的にどのように行われたのか、ちょっと見ただけではオリジナルと区別がつかない。東西南北+天井(星辰図が描かれている)の各面を原寸で展示することで、壁面から切り取られてケースに入れられたオリジナルのキトラ古墳壁画の、本来の「構図」(立体的な石室であることを考えれば「構成」というべきか)を想像することができる。やはり古い時代のものを見る時には一定の知識や理解はあってしかるべきなわけで、「教育的」な展示構成が効果的に作られていたと思う(石室の内部で保存のために壁面をはがす、という想像するだけで怖い作業の様子をとらえた映像も流れていて、これも面白かった)。


そうした前提を踏まえてキトラ古墳壁画を見た時、その線描にとても硬質なものを感じる。線が、そのベクトルを運筆の方向よりも、むしろ基底材(しっくいの石壁)へと刻み付けるようなものとして見える。これは保存状態も関係しているだろう。流れる泥流でほとんど図像の消えてしまった青龍を見れば想像がつくけれども、表面の劣化の果てにある図像群だから、おそらく線の方向を表すような薄い(淡い)部分、例えば筆が離れようとするような箇所のニュアンスが飛んでしまっていて、いわば線の骨格だけがかろうじて残っている。結果的に、線から含みのようなものが消えているので、結果的に「硬質」に見えるのかもしれない。しかし、例えば参考パネルで見られる高松塚古墳の壁画と比べてもその「硬さ」は感じられる気がする。基本的に唐等の先行する図像を模倣している(高松塚古墳の壁画ともほとんど形式的に同じだ)、という画工の筆遣いそのものに、やはり「硬さ」のコアはあるように感じた。


もう一つ、キトラ古墳壁画の「硬さ」に宿ってる質について感じることがある。キトラ古墳壁画は基本的に「絵」というよりは「記号」に近い。壁画だ、と思うと近代にいる僕などはすなわち「絵画」という先入観を持ってしまうが、「絵画」という観念はとても限定的でジャンル確定的に狭いものでもある。キトラ古墳壁画は絵であることがそのまま文字(意味)でもある。星辰図があることからある種の地図(宇宙図)でもある。だからむろん異同はあるにせよ、意味の確定したマークとしての像(イメージ)が反復的に描かれる。死者の場所=墳墓の石室内に描かれるということは本質的にこれらの像に観客はいない。ただ死者の世界で読まれるべき像(イメージ)だから、世俗の装飾的な「絵」とも位相が異なるだろう。キトラ古墳壁画は、だから「絵」を見る経験というよりは「マーク」あるいは「文字」を見る感覚に近い。石室内部の構造や、イミテーションで全体の構成を理解する必要があるのは、それらの「文字」が全体で「死後の世界の書物」を構成する骨格を理解しなければならないからで、これは高松塚古墳とかでも同じなのではないか。


いずれにせよ各図像の劣化は待ったなし、という感じで、石室から剥がして部分的にでも保存を決断した、というのはギリギリの所だったのだと思う。古代に限らず中世以後の寺社の襖絵などもどんどんコピーに入れ替わっていて、オリジナルは美術館や博物館に、本来の形とは異なる形で保存されるのはしかたがない。むしろメトロポリタン美術館が高精細の画像を一般公開しているように、ある水準を超えたコピーはオリジナルだけを特権視することでは得られない研究手法や鑑賞(例えば一般の観客が息を吹きかけられるほど近くで見る、といったような)へ開かれる可能性がある。セザンヌの全作品が極端に高精細な画像群として誰にでもアクセス可能なものになったら、様々な研究・批評の地殻変動が起きるのかもしれない。そういう意味ではキトラ古墳壁画のあの精巧なレプリカ自体を見た経験が、今回僕にとって一番大きいかもしれない。