・クルト・シュヴィッタースによる絵画作品(の一部)は一見してミクストメディアと言い得る。無論それに影響を受けた、例えば1925年に作られた村山知義「コンストルクチオン」も同様だろう。コラージュ、プリコラージュ、アッサンブラージュから後のコンバイン(ラウシェンバーグ)といった流れだけではなく、技術的に言ってメディウムの複合性といったものは近代美術において連綿としてある系譜だ。現在、美術におけるメディウムのクロスオーバーな展開を遡上にあげるとき使われることのある「ポスト=メディウム」という語の「ポスト」を、素朴に時代順序を示すものだと受け取ってしまうのは危険である以上に端的に誤解であることは改めて確認されるべきだろう。


・例えば「表象08」(表象文化論学会)の特集「ポストメディウム映像のゆくえ」の鼎談で示されている事実−クラウスによるこの語の使用が、美術の各カテゴリにおけるメディウム純化の歴史的展開として近代美術を見る、いわゆるグリーンバーグ史観(しかもグリーンバーグ自身一時期の使用概念であった)、というごく狭い仮想敵に向けられていたこと、ここでの「ポストメディウム」というのは事実上「ポストグリーンバーグ(的メディウム)」という、政治的なものであったこと等を踏まえなければ、議論はまったく混乱してしまう。


・そもそも批評というのは常に極めて限定された、狭い場所でしか生産されないのではないだろうか。美術や作品は常にそれが生産される個別の歴史的拘束の中でしか思考されない。というよりむしろその拘束自体が作品を胚胎させ成長させ老衰させ死亡させ復活させる。批評も全く同じだろう。それはそもそもローカルなものでしかない。場合によってはプライベートなものかもしれない。それがもし元の場所から移動され、まったく異なる場に置かれたとしたら、それはそもそも元の通りに動作する筈が無いのだ(例えばクラウスにはクラウスの問題意識があり、モチベーションがあって初めてそのタームが生産される)。これがもし、最初から「グローバル」で「世界的」な「理論」が目論まれたとしたら、そのような「理論」は単なる一般論以上のものではないだろう。それはまったく批判としての批評足り得ない。コーラやハンバーガーの広告のようなものだ、というのが言い過ぎなら、使い勝手の良いキャッチフレーズでしかない。