東京国立博物館/日本国宝展に関するツイート
東京国立博物館で開催中の日本国宝展に関するツイートをまとめました。現況での博物館、そして展覧会に関する疑問もある展示でしたが、正倉院宝物を東京で見ることができる貴重な機会でもあります。
日本国宝展へ。いかがなものかという展覧会名だが、正倉院宝物始め見ないわけにもいかない。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
国宝展見た。鑑賞経験としては昨日の三井記念美術館の東山御物の美展の方が純度が高かったが、東京のような田舎(by浅田彰)にいる者には正倉院宝物など、貴重な品を見る機会。後でまた投稿するかも。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
国宝展、実際「豪華」で見て損はないが、展覧会としては「貧しい」。個別の品は良い物多いのだが、そもそも「国宝」とは何か?という問いかけが無い。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
日本国宝展、と称して、そこに国宝という在り方に対する批評的な視座、批評という言葉に興味がないならせめて研究的な視座が基底に強く据えられてないなら、仮にも国立博物館としての主張はどこにあるのか、と。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
美術館、博物館がいろんな現実的、世俗的条件で難しい運営を迫られており、それは個別の館の問題ではなく広くこの社会の博物館に対するリスペクトの問題なのだと思う。同時に、それへの疑問、抵抗を東京国立博物館が見せるそぶりも出せないなら、それはもう何処の館にもそれは求められないのであって。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
東京国立博物館が、博物館に対する諸条件、諸環境への、抵抗とらいわないまでも研究的視点が持てず、単に社会の欲望を反射するだけの主体性の確保できない「箱」としか振る舞えないのなら、それはやはり外部からの指示、力でしか方向を形成出来ないだろうなと思う。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
まるでダメだったとも思わないので、ポイントは中国、朝鮮半島の文物が国宝の14%を占める事を示し、幾つか展示していた事。日本国宝展、としておいて、少なくとも日本、という文化圏が広く東アジアとの交通の中で成立していることは示している。これは素直に素晴らしい。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
現在の政治環境に積極的におもねれば、あえて中国、朝鮮半島のものは置かない、という判断もあり得たわけで、博物館の意図は別に、あそこは少なくとも日本国宝展の「日本」というものへの批評的、研究的視点を確保していたのではないか。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
だとすれば、今ひとつ手が届いていないなら「国宝」という物への批評的、研究的視点だと思う。キャプションにはその成立過程への言及はあるが、そこからさらに踏み込む姿勢が欲しい。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
国宝とは何で、どこに歴史的問題があり今後どうあるべきか、という提言までを東京国立博物館なら示してもいいのではないか。立場からいえば、それが出来る館であり、それが仕事の筈の館であり。国民がここにそれが出来る環境を与えてないというなら、はっきりと抗議の声をキャプションでも示していい。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
というか、それがないななら国宝展は狭義の展覧会ではなく「国宝(というラベル)大好き!」という、作品・文物への眼差しを欠いた浅薄な欲望の鏡、ナルシシズム反射ショーにしかならない。繰り返せば個別の品は相応に見るに値するので、このような「豪華で貧しい」展覧会、博物館しか我々は(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18
承前)持ち得ていないことを、来館者全員が再度考えてみる必要がある展覧会だと思う。そのような補完があって、初めて成立する展覧会。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 10月 18