「複々線」展に関するツイートまとめ
2013年の作家・批評家による自主企画展「引込線」展(参考:id:eyck:20130918)から派生した「複々線」展に関するツイートをまとめました。
■「複々線」の情報
「引込線」は元々所沢ビエンナーレとしてあったものですが、2011年の開催時には明らかに「非ビエンナーレ」として展開していました。その明快なビエンナーレ・トリエンナーレ形式の地方アートイベントへの批評意識についても僕は過去に記事を書いています(参考:id:eyck:20110918)。
会場には、「引込線」展に対し、規模の大きさから本来のポテンシャルが失われている、故にこの小規模な展示を行う旨のメッセージが張られています。「引込線」展の大きな流れの中で、更に自分たちの参加した展示への再検討的な意図をもった「複々線」展の開催は、非常に興味深いものです。結果的に、小規模であっても緊張感を失わない、鋭い展示になっていたと思います。
「複々線」は小規模ではあっても純度は高い。全体に彫刻的思考の作品が前景に出ていて、それがこの集り(?)の軸を成していたように思う。それはたとえば末永史尚氏の「絵画」に関してもそうだ。側面まで「描かれた」絵画は木枠の噛み合わせ部分まで作品化することで空間に積極的に作用している。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 11月 4
「複々線」、冨井大裕氏のポストカード彫刻が彫刻的に「冴えてる」のだけど、その名画カードの絵がらが彫刻的構造の一部を形成していて、このあたりは末永氏の作品と呼応していたように思う。その間?の益永梢子作品も、彫刻と絵画の中点となっていた(でも彫刻寄り?カロっぽい)。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 11月 4
荻野僚介氏の「スーパーリアリズム」絵画は、コピーの作品と並列することで「リアル」の位相をうまく躓かせている。だれもがあれは「あれっ」と思うのではないか。そこでもう観客は荻野氏にいたずらされている。高嶋晋一氏の映像は、事物の性格を内と外から記述して、その分裂を手の「演技」が(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 11月 4
(承前)奇妙な分裂を観客のイメージに生み出す感覚。箱(?)の「声」としての音がところどころに入るところも含め、一幕の演劇を見るような経験。櫻井拓氏の「キュレーション」は、その複製の複製、というコンセプト以上に、東京の会場に大阪の作家を貫入させた所が面白いと思った。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 11月 4
石川卓磨氏の作品ははっきりと政治的で、先の「反戦展」を想起させた。端的に法と倫理が主題であり、ここでは石川氏は率直に倫理だけを抜き出す(同時に動画から静止画を抜き取る)。冷静に考えると非常に危険な側面を持っている作品。伊藤誠氏の彫刻が、しかし壁にかかっているのを見ると(続
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 11月 4
この「複々線」の彫刻-絵画領域侵犯ゲームは、わりと徹底しているように見えた。A4の紙を観客が自分で帳合してまとめるやつ、楽しかったけど、なんか一部配置が混ざっていたのは意図的?事故?この小空間でこの作家数で全体にシャープな展示になってたのは流石と思いました。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 11月 4
次の引込線どうなるんだろうね。
— 永瀬恭一 (@nagasek) 2014, 11月 4