フリーペーパー「新しき場所」の「はじめに」を公開

久しぶりのブログ更新となります。3月から4月にかけての個展「もぎとれ 青い木の実を」鳩の街巡回抜粋展に足を運んで下さった皆様には、あらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。


会期中には『20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から』の発刊も有り、その刊行記念イベントにも呼んで頂けました(http://artdiver.moo.jp/?p=1072)。

20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から

20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から


このイベントの最後、あと著者インタビュー(http://artdiver.moo.jp/?p=973)の最後にも「新しき場所」という言葉を使っていますが、これは個展会場となった「6号線」のオープニングの際に作ったフリーペーパーのタイトルでもあります。


http://d.hatena.ne.jp/eyck/20150110


ここ数日、上山和樹さん(id:ueyamakzk)とのTwitterでのやりとりの中でまた「新しき場所」という言葉に触れているのですが、そこでも述べているように僕自身、「新しき場所」という言葉について十分には詰め切れていません。椹木野衣さんの「悪い場所」、及び松浦寿夫さんの連続講義「感情のインフラ、あるいは感情というインフラ」から示唆を得た言葉ですが、不十分ではあるものの、この言葉のイメージを伝えるためにフリーペーパー「新しき場所」の冒頭に掲げた文章をブログに掲載することにしました。「規定的に与えられた場(キャンバス)からいかに「新しき場所」を開示するかを近代絵画および同時代絵画の見逃されてきた側面から検討し直すというイメージ」と上山さんにはツイートしたのですが、恐らく時間をかけて考えて行くことになると思います。


当該フリーペーパー自体は、機会があればまだ配布するつもりもありますので、その際はお知らせします。

はじめに


 絵を描く事。キャンバスに、スケッチブックに、広告の裏に、段ボールに絵を描く事。場所を開く事。路上で、家庭で、職場で、学校で場所を開く事。私たちは場所を開き、そして開き続けなければならない(そうでなければ生存できない)。刻々と、続々と場所を開く。一つの制作、一つの学習、一つの家事、一つの労働。それが既存の空間に、関係にナイフを入れ、タッチを入れることになる。キャンバスを張って置くだけで、絵画は時空を開いている。しかし、それは十分には開いていない。白い紙が置かれた瞬間から、絵画の時空間は閉じられる事が決まっている。だから、描くとは、与えられた空間とは異なる空間を開く事─開き続けることに他ならない。そこに生きて生存しているだけで、私は時空を開いている。しかし、それは十分には開いていない。生まれ落ちた瞬間から、私の時空間は閉じられる事が決まっている。だから、生きるとは、与えられた空間とは異なる空間を開く事─開き続けることに他ならない。その為には与えられた空間を測定し、吟味し、分析し、解体し、組み立てなければならない。与えられた空間は、与えられた場所は、与えられた歴史は、与えられた関係は、与えられた条件は、私の交渉相手であり、私の素材だ。同時に、そのような素材=環境を吟味し、批判し、組み替えようとする姿勢/体勢自体をとる余地・余白がいつまであり得るのか。選択肢はどんどんと減って行き、道具は限られ、見えない壁が立ち始める。

 それはコード化さている場所、たとえば車がどのように走るかが決められている「道路」を「広場」に解除して、そこに新たなその場限りのルール・ゲームを作り上げる行為だった。誰かが意図して歩道から出て車道に侵入すれば制止される(コード化)。ただし、本人はその場に立っているだけにもかかわらず、後ろからどんどん人が来て押されて車道に「あふれる」ことは誰にも制止できない。いや、無論、車道に出てしまった人はコード(たとえば警官)に押し戻される。だがここでマテリアル、あるいはメディウムの条件が立ち上がる。溢れる人を制止するコード(警官)もまた人であった。100人の横溢を5人では抑えきれない。また、100人の人を1000人の警官で抑えることもできない。なぜなら彼らの仕事は既存のコード=車の通る道路の維持であった。1000人の、10000人の警官で車道を埋めてしまったらそもそも彼ら自体が脱コード的存在になる。現実問題として重要なのは、最前列の人々を否応なく押し出す背後の人々だ。それらがいなければ、しかも多数いなければ、コード化された車道は永遠に広場にならない。声をあげなくてもいい、ぼんやりでもいい、とりあえず「後ろ」でいいから来てほしい、という最前列の声は、このような要請による。
 繰り返せば、結果、あふれ出てしまった人々が車道を解除し、そこに空白地帯を形成することを、誰も止めることができない。そこで解除されたコードの空白は単なる混沌と混乱の場ではない(そうであったら結果的により強力なコード=暴力が介入するだろう)。空白地帯としての元・車道は、あふれ出た人々相互の意思によって、一瞬、車道とは異なった新しいコードを形成しようとする。既存のコードと、そこを解除して新たなコードを生もうとする運動の絶え間ない波。その波が形成する新たなる場所、元車道としての広場。これは近代以後の絵画の問題構成ではなかったか。与えられたキャンバスに、それを解除した空間を構成すること。重要なのは、ここで溢れ出る人々が、けして一元化された存在ではないということだ。だからこの「広場」もまた、一元化された場所ではありえない。ある人=場は真剣であり、ある人=場はふざけ半分である。ある人=場は怒っており、ある人=場は楽しんでいる。そこに溢れているすべての人=場にはそれぞれ異なった歴史が、記憶が、関係が、職能が、経済環境がある。さらに言うならあふれた人=場を押しとどめようとする側=場にもそれぞれ異なった歴史が、記憶が、関係が、職能が、経済環境がある。それら複数の場の連合関係と抗争関係の総体が、しかし一見「ある場所」に見える。


 注意しなければならない。それがたとえ一見類似して見えたかに見えても、私が開こうとした場所が、規定的な判断の名の元に一元的に組織されているならば、その「場」は私が求めている空間ではない。
 空間はその内的構造によって外形が決定される。断層線は、無数に走っているのだ。私は、与えられた場を上手く分割し占有するのでも、与えられた場を前提にしてそれに抗うのでも、与えられた場を「もう一つの、たった一つの場」に塗り替えるのでもない、「新しき場所」、無数の「新しき場所」を開示する方法を希求している。多産。一度開いた「自分の」場所も、明日にはもう既存の、与えられた桎梏になる。明日の自分と今日の自分が同じ自分である保証はないからだ。私にとって絵を描くとは常に、ひと筆ごとに世界を、場所を開示する行為に等しい。ここから書かれる文章は、あくまでそのような「新しき場所」に向けてだけ書きすすめられる。「新しき場所」が、はたして「幸福な場所」であるか確約はない。だからこそ、この試みは個人的に行われる。


2015年1月 永瀬恭一