“全能感”と“白痴的”について考えていた自分へのメモ。


白痴的なものは、なぜ今こんなにも強力なのだろう。テレビでもいい、書籍でもいい、webでもいい。一見、バカバカしく相手にする気にもならない個々の「白痴」は、総体として見れば圧倒的な力を誇っている。全てはそこに飲み込まれるかのようであり、改めて注視してみれば、その中には、驚くべき緻密さと技術力をもって、いわば必死に「白痴化」を目指しているものさえある。そして、それらの「高度な白痴」の流通には、かなりの金が投入されていたりもする。


それがあからさまに「白痴」である場合、ややもするとそれらは「弱く」見える。それなりの知的力をもってさえいれば、そういった「白痴」は一蹴でき、適当に放置してしまえば処理できてしまう気にもなる。事態はまったく逆なのだ。およそどのような知性であれ、現在「白痴」の前にはほぼ無力であり、その洪水から無関係でいることすら難しく、下手をすると、なまじな「知性」など逆利用され取り込まれてしまう。「白痴」は、逆接的だがテクニカルな面では驚異的な高度さで裏付けられていて、モチベーションの高い豊富な人的資源が、留まる事なく状況を押し進めている。このような「白痴」に抗することが出来るものなど、何もないようにすら感じる。くり返すが、白痴的なものは放っておけば済む、というものではない。それはほとんど暴力的と言えるほどの強者なのだと思う。


白痴化への情熱に、一種の強迫的心理を見ることは可能だろう。人が最も何事かに没入しうる状況というのは、往々にして逃避しなければいけない場面だ。逃げ、守る為には人は集中力と持続力を発揮する。そして、その努力が一点を突破したとき、逃避は充実感すらもたらし始め、その充実感が逃避していたという事実そのものを覆い隠す。何事かからの逃避それ自体が「現実」となり、逃げていた当のものを二重三重に隠蔽する。細部に執着し、一定の範囲を徹底的に塗り固めることで得られた安心は、しかしその安心が“途切れる”事を最も嫌う。結果的に、際限なく繰り延べられる安心は、際限なく次の何かを要求し、それを埋め立てていく力は、“高度な白痴”を実現してしまうのだ。


繊細で洗練され、極度に美的にすらなった白痴は、場合によっては知性とすら重なりあう。知的な意匠を纏っていようと、その源泉に「怯え」のあるものは、みかけの構図を超えて白痴の一部となり、白痴そのものとなる。実際、ある種の知性は、ほんの僅かな記号の差異を除けば、ほとんど白痴と見分けがつかなくなるのだ。そのような白痴は、綿密で、相応に(怯えを隠せる程度に)面白く、そしてどこかしら政治的でもある。政治、とはすなわち承認を求めるものであり、その承認を得るために、常に何事かを差別/軽蔑しつづけなければならない。むろん、差別/軽蔑というのは怯えから発生するものなのだ。ここで重要なのは「怯え」の源泉だ。


怯えの源泉を心理に見るよりも、多分重要なのは、経済だ。実際、停止することなくNextを渇望させるのに最も適したものこそ、怯えに他ならない。怯えているものは何でもする。怯えは、その人間を限り無く回転させつづける。様々な要素を、位置を、思想を、消費しては次の物を要求し、次の物を産み出す。その運動そのものが白痴、というものなのであり、そしてそれは資本とまったく一体となっている。経済が怯えを産むのではないし、怯えが経済を運動させているのでもない。運動それそのものが怯えであり、経済なのだ。怯えは、恐らくは空虚への怯えであり、空虚こそが経済の大きな側面をなしている。この言い方は不正確だ。経済の運動は、ほとんど自動的に空虚を発生させる。作用と反作用のようなものだ。この空虚=経済に外部はない。だから、怯えの外にいることもできない。そして全てが白痴化してゆく。


白痴化は、経済の狡知と言える。怯えを産む空虚を、そのままの姿で表に表すことは危険だ。幸福というベールを被せておかなければ、空虚は警戒されてしまう。ありとあらゆる智恵が、知性が、工芸が動員され、空虚は白痴へと組み上げられる。そして、夢は完成する。怯えているものは怯えを忘却する。忘却された怯えは名前と姿を変え、全能感とすら呼ばれるようにもなるだろう。その全能感から、様々な白痴が新たにくり出され、全能感を補強し、またそこから全能感が発生する。無数の商品が、物語りが、メディアが、言葉が、家庭が、恋愛が、マネーが、「有名」が、「有能」が、「無能」が、自分をメタな場所へと隔離し、幸福な空虚のスパイラルを上昇させてゆく。この上昇感覚こそ、全能感という経済への隷属装置になっているように思える。