「生き直している」ということ

高橋源一郎「文学なんか恐くない」から引用。

人は何のために「小説」を読まなければならぬのか。
決まっているではないか。「生きる」ためだ。
「生きる」ということと、呼吸して、飯食って、糞尿を垂れて、おしゃべりして、ガアガア寝ることは同じじゃないのである。それじゃあ、猫と同じじゃん。
ありうべき誤解を避けるためにいうならば、タカハシさんは猫をバカにしてそういっているわけではない。タカハシさんは猫と共に生きてきたのだ。どっちかというなら、人間より猫の方が好きなんじゃないかと思う時だってある。
けれど、「猫が生きている」という場合の「生きている」という意味と「人間が生きている」という場合の「生きている」という意味は相当違うね。なにしろ、猫には「小説」が読めないのだもの。
猫は確かに、ゴロゴロ喉を鳴らしながら「生きている」。人間は、ほとんどの時間を、猫と同様な意味で「生きている」。結構なことだ。
しかし、人間には猫と違った意味で「生きている」時がある。
もったいぶった言い方はやめようね。
それは「生き直している」時なのである。

「人は何のために「小説」を読まなければならぬのか。」を「人は何のために「絵画」をみなければならぬのか。」と言い換えることは、度が過ぎた行為かもしれない。しかし、やっぱり人は、「生き直す」ために絵画を見るのだ、と言うことができるように思う。

そして、生き直すために絵画を見るということは、生き直すために絵画を描く、ということと等しい。絵画を見る、という行為は、絵画を「描くように見る」ことなのだ。
「ありうべき誤解を避けるためにいうならば」、画家でなければ絵を(描くように)見ることはできない、と言っているわけではない。
基本的に、絵を描いたことのない人などいないはずだ。子供のころ、あるいは小学校で、中学で、高校で、ほとんどたいていの人は絵を描いている。絵と言うのは、ものすごくありふれた表現だ。楽器を弾けない人はたくさんいても、絵を描けない人は少ない(上手下手は関係ない)。絵は、紙と鉛筆があればたいていの人が描くことができる。
だから、絵画を前にすれば、どんな人でも、自分の身体の延長線上に、その筆跡をイメージすることはできる。

絵を見ることは、絵を描くことだ。そして、人は何のために「絵画」をみなければならぬのか(描かねばならぬのか)と言えば、それは、「生き直す」ためなのだと思う。

再び同書から引用。

だから、タカハシさんはバカなのだ。利口に振る舞えないのだ。バカな読者には、簡単な小説とか難しい小説の区別なんてないのである。
バカな読者に出来るのは、その作品に入り込み「生き直す」ことだけだ。