描くことの不可能性と不可避性
能力があるから可能性があるとは限らない。「できる」ことに人は憧れない。「どうにもかなわないのに憧れてしまった」という、ある種の断絶が、ジャンプを産むんじゃないか。
東京都美術館「マルモッタン美術館展(http://www.tobikan.jp/kikaku/index.html)」でモネとモリゾを見てきた。モネのコレクションは、数はそこそこだったけど、素晴らしい。対してモリゾの作品は、数が揃っているのだけど、どうしてもモネにくらべるとイマイチな感じに見えてしまう。
で、僕の興味は若干絵から離れて、そのモリゾのイマイチ感に向いてしまった。なんでかと言えば、当然僕だってイマイチな画家なわけだから。何故これだけ描く人がイマイチなんだろう。モネと比べるのが可哀想、なんて言ったらむしろモリゾに失礼でしょう。
いやいや、モリゾも悪くない画家だと思うのだ。だが、この人は「描ける絵」を書いて終わったような印象がある。要は、上手なのだ(上で自分とモリゾを重ねるような発言をしているのが心底申し訳ない)。モリゾは賢く、学習能力が高く、器用だ。そして、それを乗り越えたものを感じない。技術的な試行錯誤はあるものの、「絵らしい絵」を描いて「絵画そのもの」に出会っていない感じがする。
本当の困難に出会う力、絵画にうちひしがれることができる才能というものがこの世にはあって、モリゾは、それに恵まれなかったんじゃないか。
抵抗をくぐり抜けたところにだけ快楽はあって、動物的にスムースな欲望の充足は、浅薄な快感しか産まない、というのはフロイトのエロス論集(ちくま学芸文庫)にあった言葉で、思わずそんなフレーズを連想してしまった。あんまり違う分野をイージーに結びつけてもどうかと思うけど。
僕は才能という言葉には慎重で、あんまり使いたくないのだけど、モネを見て才能という言葉を浮上させないでいることは難しい。そして、その才能というのは「上手下手」「器用不器用」「頭よしあし」が蒸発してしまうような地点にあると思う(それらの要素が不要と言っているわけではないことに注意)。人よりも問題が上手く解決できたり、人よりも困難に出会わずにすんだり、人よりもくるしさを体験しなくてすむような能力の高さは才能の欠如なんじゃないか。
モネは、絵が描けると思って描いていないと思う。むしろ描くことの不可能性に出会って、そして描くことの不可避性にも出会ってしまった。
比喩としては不正確だけど、酒や薬に依存する人は、楽しくて依存しているわけではない。飲まなければいられないのだ。
モネは、絵画中毒だった。それはけして楽しいことでも幸福なことでもないと思う。その苦しみから逃れられないということが、モネをモネにした気がする。
BUNKAMURAにもモネが来てる。「モネ、ルノワールと印象派展」
http://www.bunkamura.co.jp/museum/event/monet-renoir/index.html
んーあと何度か書いたヨハネス・イッテンとか(JDNレポートhttp://www.japandesign.ne.jp/HTM/JDNREPORT/040128/itten/)、あの六本木ヒルズ・森美術館の草間弥生展とか(クサマトリックスっていうネーミングはどうよ。http://www.mori.art.museum/contents/kusamatrix/)急に美術館がいろいろやってますね。困る。