個展に寄せて

橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』から引用。

ある人には「美しい」が分かり、別のある人には「美しい」が分からない−それは、なぜなのでしょう?(中略)
分かっている人間は、「自分はもう分かっているから」という理由で、さっさと重要なことをすっ飛ばしてしまいます。ところが分からない人間というのは、「一体あいつは''なに''が分かっているんだ?こっちは''なに''が分かっていないんだ?」という悩み方をするものです。分かっている人間には、この 分かっていない人間の悩み方自体が理解できないのですが、分からない人間は、「なにを分かるんだ?」というところでつまづいているのです。

ずいぶんインスパイアされる本だった。以下の文章は、この本に深く影響を受けている。

僕は絵を描いている。こういう人間は、一般に「美しい」がわかると思われている。思われているだけじゃなくて、自分でも「美しい」がわかる、と、普段は思っている。その証拠に、自分が見てきた絵や美術作品の感想やレビューを、この場所で書いている。

でも、今回の個展のための作品を描いていて、自分は「美しい」がわからないのだ、と思った。
白いキャンバスに、絵の具を置く。それを見る。次に、続けてどんなふうに絵の具を置くか考える。どうすれば、その画面が「美しくなるか」を考える。そして次の絵の具を置く。また見る。また考える。

その、「考える」ときに、僕はまったく、どうしていいのか分からなかったのだ。何が美しいのか、何が美しくないのか。今の画面はいいのか悪いのか。次にどんなふうに画面に筆をおけばいいのか。ぜんぜんわからなかった。
だから、出来上がった絵は「これこそが美だ」という、明解な回答では、ぜんぜんなかった。混乱し、疲労し、矢も尽き刀も折れて「もうこれ以上どうしようもない」という、「行き止まり」の地点に画面が立ち至った、という事の結果でしかない。

「分かっている」人に、どうすればこの「分からなさ」を伝えることができるだろう。例えば、僕は「どんな服が良い服か」とか、「どんな服が自分に似合うか」が、全然わからない。洋服屋に行っても、何を選んでいいのか分からないし、どんな組み合わせをしたらいいのかが分からない。これは、服選びが得意な人には分からない感覚だろう。服選びが得意な人にとって、それは雑作もないことのはずだ。
他にも、僕は「ゴルフの面白さ」が分からない。「金銭感覚」がわからない。「車を運転する素晴らしさ」がわからない。

誰にでも不得手なこと、分からない事はあるとおもう。それと同じように、僕には「美しい」がわからない。「泳ぎ方の知識がある人」と「泳げる人」は全然別だ。僕にはたぶん、美術に関する知識は多少はあるかもしれない。でも、本当に肝心な事は、全然分からない。

じゃあ、なんで絵なんか描いているのかと言えば、僕は絵に「感動」してしまったことがあるからだ、としか言えない。その「感動」というのは、「分かった」という感動では、ないのだ。ただただ、なんか一発「やられて」しまったのだ。わけのわからない、自分より大きなものが、自分を襲ったことがあるのだ。モネ、ラファエロ狩野永徳長谷川等伯、あるいは同時代の、本当に素敵な作家たち。

こういう体験をした人は、その「わけのわからない、大きなもの」を、拒否するか、受け容れるしかない。拒否すれば、その体験は憎しみになる。受け入れれば感動になる。

だから、絵を見て、感動したことがあって、自分でも絵を描いている僕は、分かっているから描いているんじゃないのだと思う。その「分からなさ」から逃れられなくて、「分からなさ」を追っかけて、問い直す作業を、ずっと続けていっている。その「問い直し」の行程で生まれるのが、僕の絵画なんだと思う。

分かっている人、あるいは分かったことを見たい人に、僕の絵がどう見えるのかは、想像するのも恐ろしい。もし、分からないことを抱えている人、分からないことを問い続けている人には、少なくとも「あ、ここにも分かってないやつがいるな」と感じてもらえるかもしれない。

ご高覧いただき、厳しい御批評を賜ることができれば、幸いです。