技術が作る感性

TAKA ISHIIギャラリーで村瀬恭子展を見てきた。
村瀬恭子と言えば、水の中にたゆたう女性を描いて、その独特の感性で注目されるようになった画家なのだと思うけど、その感性は、村瀬恭子氏の「技術」が作り出しているのだということが、今回はっきりわかった。

最初に目に飛び込んで来るのは、絵画の「図柄」じゃない。美しいマチエールの積み重なりと対比、その絵の具の層の抽象的な関係性だ。水の中に半分浸っていたり、草木の中に見えかくれする女性の姿は、その絵の具の層の関係性の中に、埋もれるようにして、一瞬遅れて感知される。村瀬恭子氏の絵画の素晴らしさの中心は、この絵の具の層と層を、高度な抽象性で「関係させる」技術力にあると思う。

村瀬氏の作品を見るのは、以前の東京都現代美術館のアニュアル展「フィクション?」以来だけど、その「絵の具の層と層を関係させる技術力」は、より洗練され、高度になった。というより、この画家は、本来技術によって成り立っている絵を描いている人で、そのことがよりはっきりしてきたんだろう。

村瀬恭子氏の技術の柱は、マチエールと画面構成の2本だ。薄く溶いた絵の具をさらっとひいた上に、ぺったりとした平面的な厚みのある絵の具層を重ねる。さらに、2色の絵の具を、パレット上で完全には混ぜず、キャンバス上で、筆(硬めの豚毛の筆か)よって微妙な混ざり方をする荒いタッチをつくり、拡げる。そしてそれらの絵の具層の重なりが、ハーモニーをかなでながら、ちょっとしたドローイングによって「人」や「草木」に仮象させられる。

村瀬恭子氏の絵画に見られる「感性」は、こういった複雑な、しかし明晰に構築された要素の集合体としての絵画画面が、結果的に形成するものだと思う。間違えてはいけないのは、こういった「感性」を予めもった「村瀬恭子」という人物を想定して、「絵画」を見ないで「(架空の)村瀬恭子」という人物をイメージしてしまうことだ。そしてそのイメージとしての「(架空の)村瀬恭子」に、感情移入してしまうことだ。

技術というと、感性より下位にあるというか、感性に従属するもののように思われるかもしれないけど、これはまったく逆だ。技術が感性を作り出す。もっと基本的なことを言えば、感性の所在としての人の「内面」「内部」というのは、そもそも表現の結果として、表現の技術によって形成される。

人の感性や内面は、予めあるものではない。それは「発語」の結果として出てくる。そのことを知ったのは、もう10年くらい前のことになる。
「言葉に、内部も外部もないんだと思います。言葉は、単に記号なんです。その(記号である)言葉を発した瞬間に、内部は形作られるんだと思います」というのは、E.V. Cafe.という本で吉本隆明が発した言葉で、当時僕はこの言葉にびっくりした。表現というのは、あらかじめある「内部」を、「表に現した」ものだと思っていたからだ。

「内面」が先にあって、それが言葉になるわけじゃない。言葉を発した瞬間、つまり世界に言葉を投げかけた瞬間に、その反作用として内面が作られる。子供が言葉を覚える時、ある特定の誰かを「ママ」だと覚えてから「ママ」と呼び掛けるのではない。なにか自分の回りで飛びかっている「ママ」という音を、とりあえず発してみる。その結果、特定の誰かが振り向き、自分に働き掛けてくる。そのことによって「ママ」と「子供」の関係は構築される。そんな「反作用」としてできた内面が無数に積み重なると、ある時、まるで予め自分の内面というものがあって、それを言葉に翻訳しているような気になってしまう。

素晴らしい感性を持っている人が、すばらしい言葉を発するわけではない。高度な技術が、それを可能にする。絵も同じだし、演劇も同じだ。たぶん音楽や映画もそうだと思う。そして、村瀬恭子氏は、そのことにとても自覚的だ。だから、彼女の絵にある奇妙なまでの冷静さは、ストイックに技術を組立てていく製作姿勢から生み出されているのだとおもう。

info
村瀬恭子展 "To The Mountain Lake
開催中〜3/13まで
11:00 - 19:00
タカ・イシイギャラリー
http://www.takaishiigallery.com/
map
http://www.takaishiigallery.com/html/map/japanese.html

この展覧会は間もなく終わってしまいますが、森美術館で開催中の「六本木クロッシング展」でも村瀬恭子氏の作品が見られます。
森美術館六本木クロッシング展」
http://www.mori.art.museum/index02.html