イノセンス/責任の回避?(ネタばれあり)

話題のアニメーション映画、「イノセンス」を見てきました。僕はまったくの映画野蛮人で、アニメに対しても特別な造詣は持ち合わせていないので、批評なんていう水準のものは書けないのですが、いろいろと触発された部分があるので、ざっと「感想」を書いておきたいと思います。記述中にネタばれを含んでいますのでご注意ください。


膨大かつ難解な台詞に押し流されてしまいそうになる作品ですが、筋立ては比較的ストレートな刑事ドラマです。
ロボット技術が発達し、人の身体の大部分も機械やコンピュータによって代替されるようになった近未来に、人をサポート(事務的にだけでなく性的にも)するために作られたロボット(機械人形)が、人を襲い殺傷する事件が起きます。かつて恋心を抱いていた上司の女性が、身体を捨てて人工知能化したプログラムと融合してしまったという過去をもつ主人公の刑事・バトーは、この事件の捜査を命じられます。その捜査の結果、ロボット製造企業が、ロボットに擬似的な人間性を与えるために、子供を誘拐してその「魂」を「コピー」し、ロボットに「ダビング」していたという犯罪が明らかになります。その物証となる「魂ダビング工場」を差しおさえるために、要塞化した「魂ダビング工場」に乗り込む主人公バトーは、そこでかつて身体を捨てたはずの片思いの相手の女性上司に再会します。


個人的な感想としては、「良かったけど、すごく素晴らしいとは言えない」というものです。理由は以下です。
まず、肯定的に捉えたいのは、深い洞察に基づいた、メッセージ性の高い作品で、「アニメ」という枠からは想定できない問いを含んだ作品だということです。また、技術的に見ても恐らくこれはアニメーションというものの、現段階でのある極点を目指されたものであり、部分的にはそれが達成されているのではないかと思えるところです。本編中の背景美術も、驚くような精度で描かれていますが、アニメーションという意味では、ことに「犬と人の関係」を示す動きが繊細に描かれ、効果を上げているとおもいました。オープニングの、サイボーグが製造される工程を描いたCGアニメーションは、クリス・カニンガムによる歌手ビョークのプロモーションビデオ「All Is Full Of Love」を彷佛とさせます。


映画というのは映像の技術ショーではないとも言えるのでしょうが、シロウトにしてみれば、これだけの映像を見せられてしまうと、素直に驚いてしまいます。しかも緻密なのはなにもCGによる描写だけではなく、その構図や全体の構成、編集、音楽・音響も含めてのことだと思われ、たんに予算と技術が与えられればできるといったものでは全くないと思います。


また、作品内容としては、この「イノセンス」の監督の影響下にあるといわれる「マトリックス」よりも、数段深みのあるものだと思います。「マトリックス」では、「幻想/現実」の境界が固定され、とくに根拠もなく「現実」に価値があるとし、現実が幻想に勝つという若干安易な世界が描かれています。が、この「イノセンス」では「人間/非人間」の境界を疑い、崩し、人間の価値を疑うといった次元に踏み込んでおり、一見の価値ありです。しかも劇場で見るのがベストだと思います。


しかし、ここまで評価する点がありながら、「素晴らしい」とは言い切れない理由があります。それは「問題提起に対する責任の取り方(解答)が不明確ではないか」というものです。
この作品での問題提起は「人間に価値はあるのか」だと感じられます。主人公バトーは、人生に対してペシミスティックであり、彼が価値あるものとしているのは「非人間」としての動物(犬)と、身体を捨て、抽象的な人格情報と化したかつての女性上司だけです。また、魂をコピーする素材として誘拐され、廃人になる恐怖からロボットにメッセージを吹き込み、擬似魂を与えて殺人と自殺をさせるよう仕掛けた子供に対して「犠牲者がでることは考えなかったのか。ロボットに殺された人間のことじゃない。人間性を与えられてしまったロボットのことだ」と怒ることからも、彼が人間よりも非人間(ロボット=人形)に価値を感じているのは明らかです。


また、この作品では「子供」も「人間の前段階」として価値あるものとされています。主人公の相棒であるトグサは、作品中一貫して自分の子供を価値あるものとしており、作品の最後では、トグサは自分の子供の元へ、主人公バトーは飼い犬の元へ帰還するという結末を描いて終わります。


僕のこの映画に対する疑問は、「なぜバトーは人間に踏み止まるのか」ということです。あるものの価値を否定し、別のものに価値があると思うならば、端的に言って、価値のないものと自分の関係は切断し、価値あるものへとジャンプすることが、否定したものへの責任のとりかただと思えます。バトーはロボットを道具に使い、SOSを発信した子供に怒りを向けながら、しかし自分はロボットになることはありません。身体を捨て、抽象的な人格情報と化したかつての女性上司を今も慕いながら、しかし自分は身体を捨て人格情報になることはありません。犬を愛しながら、もちろん犬になるわけではありません。あくまで人間としての立場を保持しながら、ひたすら「人間に価値はあるのか」と問い続けるだけです。


もうすこし広く考えるなら、この映画の問題提起は「人間性とは何か」というところまでは拡大できるでしょう。身体を脳以外機械化した主人公は、人間と機械の間にたち、自分の人間性の基盤となるものを失いかけています。自分は機械(非人間)なのか人間なのか。そういった不安から、人間以外のものになったかつての上司への想いを捨てられず、犬に感情移入し、ロボットに人間性を埋め込んだ子供に怒るのです。


しかし、「人間性とは何か」という問いは、この映画においては「人間性に価値はあるのか」という問いと相似です。ここまで繰り返し「人間以外のものの価値」を評価しながら、しかし主人公がけして捨てない「人間性」の価値は、最後まで明示されません。この映画にほんの少し感じる後味の悪さは、例えば「恋人の悪口を言いながら、けっしてその恋人と別れようとはしない」人の話の後味の悪さ、あるいは「会社の愚痴をいいながら、けして会社を辞めない」人の話の後味の悪さに似ています。


人間に価値を感じられないにも関わらず、人間であることを止められない苦悩を描いている、という言い方はできないと思います。ロボットであるにも関わらず、魂を擬似的に与えられた苦悩をもったロボットは、非常に真摯に「自殺」を選んでいます(そこでロボットが自殺する直前にバトーが人形を「破壊」するのは、自殺という人間的行為をしてしまうロボットを、ロボットのままにしておこうというバトーの「慈悲」かもしれません)。


価値を感じてしまったものには、自分はなれない、というジレンマの中での試行錯誤を、もう少し積極的に描いているのならばまだ納得しやすいのですが、この映画の主人公はそういった試行錯誤からは遠いのです(古典文学を引用しながら考えている時間のほうが長い)。おそらく、その理由は意外に単純なのではないでしょうか。「人間以外のものに価値を与えているのは人間だけだ」という事を、主人公が知っているから、自らは決して非人間にはならず、人間に踏み止まるのではないでしょうか。


一番そのことを感じ取れるのが、主人公が愛する非人間はペットである犬だということです。ペットは、当たり前ですが人間が飼っているからペットなのであり、人間によってペットとしての価値を確定されています。それは野生動物とは位相が違うのです。そもそもその位相の差を作るのは人間だけです。ペットが人になつくのは、人が餌と住環境を与えてくれる「環境」だからであり、けして一般的な意味で人を愛しているわけではありません。そこには対照的な「関係」は希薄で、一種の支配があるのです。


もし「人間以外のものに価値を与えているのは人間だけだ」ということがこの映画の基盤であるならば、そこには一転してとてつもない人間中心主義が現出します。


この映画で、上記の点以外に多少なりとも主人公に人であることを肯定させている要素は、家族を愛するトグサです。トグサはたんに子供フェチなのではなく、家族という関係性、自分と他人とが関わる1つの関係形態である家族を大事にし、そこに価値を見いだしています。また、バトーはなんだかんだいいながら、このトグサという相棒との「関係」を重視し、そこに愛情も持っています。映画の最後の最後にトグサに「あんたと一緒だと命がいくつあっても足りない」と言われながら、明日再び会うことを確認するバトーには、その相棒との関係とそこにある微妙なすれ違いを肯定する意志が見えます。しかし、このシーンはあまりに短く、バトーがこのことを起点として自分が人間であることを肯定したとは言えない気がします。


いずれにせよ、安易なヒューマニズムに基づいてこの映画を判断するのは、かえって間違っていると思います。監督は、作品からだけ判断すれば、正直「人間に価値なんてないよ」という立場に立っていると考える方が自然です。この映画の主人公が人間であることを止めないのは、たんに興行としての映画への気遣いというか、観客への気遣いなのかもしれません。しかし、バトーがなんらかの形で「人」を捨ててしまうという形態をとりながら、なおもエンターテイメントとして成立しえたならば、さらに素晴らしいアニメーション映画になったのではないでしょうか。というより、そうすることが、この映画のもっとも望むべき責任の取り方だったように思います。そこを回避してしまったがゆえに、僕が上で述べたような、監督自身も想定していない「ウルトラ人間主義」が浮上してしまった、とは言えないでしょうか。


ボリュームとしては疑問点に多くを裂いてしまいましたが、映画に無知な僕にこんなにインパクトをくれた作品だということで、やはり魅力的で、考えさせられる映画だと思います。1800円は安いのではないでしょうか。映画館がものすごくガラガラだったので、きちんと収益が回収できるのか不安です。ぜひ次作を見せてほしい作家ですし、海外でも十分評価されえる作品だと思いますので、興味ある方は、積極的に映画館へ足を運んでみることをお勧めします。先述しましたが、音響のことを考えても、やはりビデオではもったいないです。

公式サイト
http://www.innocence-movie.jp/index1.html


というかこの文章、映画にとっては素材でしかないであろう「お話」に関する記述ですね。映像に即した、きちんとした批評が読みたいところです。