ボードレールから藤枝晃雄・椹木野衣・岡崎乾二郎まで(1)

19世紀末のフランスで書かれたボードレールの「1859年のサロン*1」の中核は「2流」の作家に対する言及です。「誰?」みたいな画家のオンパレード、まぁ誉めるはケナすは、縦横無尽です。この場合、ボードレールは積極的に「2流」の作品群を問題としたのであって、「近代とは2流の時代だ」という批評意識がボードレールを「1流」たらしめていると言えるのでしょう。

ここで注意しなければいけないのは、「2流」を問題とするには、そもそも「1流」「2流」という格付けが成立していなければならないということです。ボードレールの「2流」への視線の背後には、常に「1流」への意識が働いています。ここで自明とされている「1流」「2流」という格付け、そのことによってはじめて意味を持つ「2流」への言及は、翻って「1流」を照射することにも繋がるのです。

例えば「ジャンル」があるヒエラルキーと共に成立しているということも、ボードレールの条件だったのではないでしょうか。ボードレール自身が「ジャンル」の再確定(風景画の蔑視)をする(ことができる)のは、ヨーロッパの絵画における確固とした「ジャンル」の序列があるためです。西洋絵画の歴史には、宗教画、歴史画、肖像画、風俗画といった明瞭な絵画内部の主題の上下関係があります*2。だからこそ、「近代」において成立した「風景画」の位置付けが可能であり、意味を持つと言えます。

こういった条件がまったくない場所、つまり現代の日本では、誰もボードレールのように美術批評を書くことはできません。藤枝晃雄氏の 「絵画論の現在」(美術手帳・1989年まで連載)が、徹底して「1流」の作品群を扱うのは、ボードレールに対する自らの位置を意識してのことではないでしょうか。

1流・2流の区別なく全てが相対性の中に流れてしまい、ありもしない「ジャンル」を「横断」することがなにかしらの冒険でありえると思われた20世紀末の日本で書かれた「絵画論の現在」は、その皮肉に満ちたタイトルの元、モネ、ゴッホピカソなど、「1流」の作家の作品を、極めて厳格なフォ−マリズム*3批評によって分析していきます。その明晰な論述は、美術批評を完成させたと言われるアメリカの批評家、グリーンバーグと関連づけられるのは当然でしょう。しかし、その方法論がグリーンバーグによっているとしても、そもそも''そうせざるを得ない''という藤枝晃雄氏の批評意識の根底には、ボードレールがいたはずです。

「2流」の作品への「印象批評」を書いたボードレールに対して、「1流」の作品を形式的に分析する藤枝晃雄氏。しかし、そこで藤枝氏の視界にあったのは、近代というものを「完成させた」グリーンバーグではなく近代美術批評を「開始した」ボードレールだったのではないでしょうか。そこには、そもそも「近代」などが成立していない状況をポストモダンと呼んでしまう東アジアの群島に、この批評によって「近代」を刻み込もうとした藤枝氏の孤独な戦いがあります。

かろうじて藤枝氏の近くを通り過ぎたのは、フランス文学者で映画批評家だった蓮實重彦氏による「凡庸な芸術家の肖像」(1988)だったと思えます。ボードレールをはっきりと意識して書かれたこの本は、その文体を特長付ける「迂回」と裏腹に、極めてダイレクトに文学における凡庸=2流を扱います。しかし、これが蓮實氏に可能だったのは、まだ当時の日本文学の領域では、美術よりも遥かに「批評」が機能し、1流/2流という構図が生きていたからです。これみよがし?に「日本の文芸批評の崩壊」を嘆いていた蓮實氏を、藤枝晃雄氏はどのような思いで見ていたんでしょうか。崩壊もなにも、日本の美術と美術批評は、崩壊すべきものすら持ち合わせていないというのが、藤枝氏の見解です。藤枝氏が、あえて「1流」を描かざるをえなかった状況は、やはり孤独だったのではないでしょうか。

しかし、こういった形の日本からの孤絶は、結果的に「玉砕」にならざるを得ないのでは無いか。この言い方が不当なら、その仕事で救われるのは藤枝晃雄氏だけであって、日本の美術状況には何の変化も与えないのではないか。暴力的であれなんであれ、具体的な「状況」を作るにはどうしたらいいのか。そういった意識と戦略に基づいて書かれたのが、椹木野衣氏の「日本・現代・美術」という本なのだと思えます。(つづく)

*1:サロンというのは、当時のフランスの「官展」です。画家と名乗るには、とにかくここで評価を得ないことには話しにならなかった場所です。官展と言っても、日本の今の日展と同じにしちゃいけません。モネもマネも、とりあえずここには出してます。印象派はとりあえず「反サロン」を標榜していたのであって、後にマスターと言われる人たちの仮想敵となりうるだけの権威はありました

*2:この序列は画家の序列にもつながります。ぶっちゃけ宗教画を描く画家が尊敬されて、風俗画が得意な画家はいくら上手くても「差別」されてたのです。

*3:わかりやすく言えば、「作品に即して」分析する態度。ゴッホはクルクルパーだからこういう絵を描いた!なんてのはフォ−マリズムとは言いません。失恋したから哀しい絵を描いたとか、そういうのを「心理主義」と言って藤枝氏はこきおろします