クレヨン

クレヨン。クレヨンクレヨンクレヨン。クレヨンという言葉には独特のものを感じます。幼稚園や小学校でばんばん使っていたあのクレヨン。カラフルで単純でチープなあのクレヨン。柔らかくて滑らかにすべるから「どこまでも描けそう」な感じがします。


クレヨンで描いた絵には「失敗」がありません。混色できないから「変な色」がありません。滲まないから、意図しないところまで色が拡がったりしません。描いたところまで色が乗る。手を放したら、そこでおしまい。水を含まないから、乾燥を待つ必要がなく、乾いたら色が変わっちゃった、なんてこともありません。


クレヨンには、善くも悪くも自堕落なところがあります。「待つ」ことがないから「反省」なんかしない。思い付いた先から描いていく。思い付くより先に、クレヨンが先走って自分をぐいぐい引っ張っていっちゃう。描きたいだけ描いて、画面が埋まったら完成。「よくできた」も「もうすこし」もありません。全力で、全身で描いて、お腹いっぱい、充実感いっぱいになったらオシマイ。クレヨンで描いてた頃は、嫌いも好きも、下手も上手もなかった。ただ楽しいだけの絵があって、それは砂場遊びとか水遊びとかと同じ場所にありました。


「絵を描く事」の、もっとも幸福だった時代の記憶の中に、クレヨンはあります。


小学校も中学年くらいになって、水彩絵の具を使い出したら、とたんに「絵がきらい」になった人は多いのではないでしょうか。水彩絵の具というのは、クレヨンに比べると格段に「難しい」画材です。混色をして、水分をコントロールしなければなりません。乾燥を待たないと、次の色が載せられません。考えなきゃいけない。待たなきゃいけない。「鉛筆で下絵を描いてる時はよかったのに、色を載せたら失敗しちゃった」というのは、写生大会で良く聞いた声です。


クレヨンという画材は、その扱いの簡単さだけでなく、その物質性自体に子供心を震わせる何かがあります。油を多く含んだスティック状のクレヨンは、持った時の質感が艶かしい。指にしっとりとフィットします。触感だけでなく、なんか美味しそう。覚えてないけど、口に運んだこともあったかもしれない。きいろ。ふかみどり。だいだい。どれも絶対「甘そう」でした。


大人になって、絵が好きだと思って、いや好きな筈で、ずいぶん「上手」になりました。たいがいの画材の扱いは覚えました。油絵の具にアクリル絵の具。そこに更にいろんなメディウムを調合し、組成を組み上げ、乾燥をコントロールし、場合によっては版画も刷るし、パソコンでデジタル出力だってやっちゃいます。あの頃に比べれば、無数の武器を持ったようなものです。


でも、その無数の武器を両手に抱えて、ふと「何も描けない」時があります。白いキャンバスの前で、呆然と立ちすくんでしまう時があります。「失敗しちゃった」と言っていた友だちの顔を思い起こすわけではありません。失敗することすらできなくなってしまった、武器ばかり持ってる大人の自分がいます。そして、そんなことはしょっちゅうなのです。


だから、というわけでは無いのですが、僕の部屋にはいつもクレヨンが置いてあります。ちょっと絵を描くことに疲れたら、クレヨンの箱を開けて持ってみます。その、ぬめらかな手触りを感じると、なんだか安心するのです。画用紙にクレヨンを走らせてみれば、「上手」も「失敗」も何処かへ消えて行きます。ぐいぐい描く。飽きたら次ぎの紙。クレヨンは、紙と自分の距離をゼロにしてしまう不思議な魔法みたいなものです。こんな「ふしだら」な画材は、やっぱり他に無い。


だからといって、自分が子供に戻れるわけではありません。でも、クレヨンが取り戻させてくれる「ふしだらさ」を切り捨ててしまったところに、やっぱり僕にとっての絵画はあり得ないと思います。紙にクレヨンで描く悦びを保持しながら、なお「それだけじゃない楽しさ」、「複雑であることの楽しさ」、「今の自分に拮抗してゆく楽しさ」をどこまでエンジョイできるのか。


大人になることは、切り捨てて貧しくなることではないはずです。子供の頃には手が届かなかった、想像もできなかった複雑な世界を渡ってゆく悦びを得て、あの頃よりももっと「豊か」になっていくことです。冷静になってみれば、子供のころというのは、無数の壁に閉じ込められた、不自由な箱庭にいたようなものでした。だから、やっぱり僕は大人になってよかったと思います。そして、その「大人の豊かさ」を思い出すために、今でも自分が捨てずに持っている「クレヨンで描く喜び」を、たまに取り出してみるのです。