眼球の強奪

終わってしまった展覧会ですが、ギャラリー山口で外久保恵子写真展を見てきました。DMはこんな感じです。http://bonjour.tcpac.jp/cool/archives/soto.jpg


ギャラリー山口の地下、あまり広くはないものの天井高がある会場の壁面に、比較的小さなモノクロのプリントが、しっかりした厚みのあるフレ−ムに入って展示されています。水平に1列に並べられるだけでなく、10枚程度の作品が固められて展示されている場合もあります。


作品サイズが小さいぶん、まとまった量の作品が展示されていますが、モチーフは一貫しています。比較的新しい郊外の、表情に乏しい住宅街の一角が扱われています。また、しばらく見ていると気づくのですが、これだけの量の作品のどれにも、人物が写っていません。郊外ですから、庭木などの植物は写りこんでいますが、それ以外の生き物の姿は見つける事ができませんでした。


郊外の住宅地ですから、人影がないのはむしろ不自然です。作家は非常に意図的に、人の往来、あるいは鳥やネコなどの「体温を感じる」生き物の姿がなくなる一瞬を狙って撮影していることが推察されます。プリント自体は、けれんみのないストレートな白黒写真で、ピントや焼き込みなど、過不足なくニュートラルな仕上がりになっています。このことも、作品内容を考えると十分意図的なものと思えます。この外久保恵子氏の写真では、人の姿を完全に排除することによって、人の気配が感じられようになっているのです。


現代美術の手法で一般的ですが、作品の展示会場で、「空白」をなんらかの形で与えられると、観客はその空白を自らの意識で埋めようとします。この外久保恵子写真展が、ギャラリー山口という現代美術の発表をメインに行う会場で開かれていることも考えあわせると、外久保氏の作品から人の姿が「消されている」理由がよくわかります。この写真に、ある種の気配が感じ取れるのは、写真作品単独の効果だけではなく、「作品と観客」という関係によるのです。


この、作品には写っていないものの、亡霊のように観客の目に浮かび上がってくる「人の気配」とともに、もう一つ別の「人の気配」に気づきます。


誰も写っていない光景、人のいない筈の光景に、一つだけ人間的なものがあります。それは、他の人間的なものが排除されている中で、むしろ極端に強化されて感じられます。すなわち、この写真の「視点」を確保した人物、外久保恵子氏という、一瞬誰もいなくなった筈の場所に立っていた人間の気配です。外久保恵子氏の視界こそがこの写真に定着している視界であり、作品の前に立った時、観客は外久保恵子氏の立っていた場所に「入り込み」、外久保氏の視界に「入り込み」ます。それは観客の眼球を外久保氏の眼球に置き換えるような効果を持った写真群なのです。


箱庭的な狭さを持ったギャラリー山口地下という会場、作品サイズに比べて厚みと重量感(オブジェクト感)を感じるフレ−ム等、「展示」という形式によって効果を上げているところが、写真展としては新鮮に思えました。
この作品から伝わってくる「人の気配」、そしてそれを構成する構造自体に関しては、僕自身は若干ネガティブに感じましたが、いずれにせよ、相応の力量をもった作家であると思います。