応答

「いもじな日々」(http://ha5.seikyou.ne.jp/home/seamew/profile/diary.htm)の6/27の記事で、僕の書いた文章(id:eyck:20040607)への応答がありました。
少々話しが細部に流れてしまって、焦点が見えづらくなってしまったでしょうか。今回僕が言いたい事は、基本的に1つです。すなわち、「作品を見ることに''正解''はない」ということです。


「いもじな日々」では、作品を見て「作家の意図」を読取ること=作家と「相互理解」することに重点を置いています。そこでは「作家の意図」が「正解」となります。つまり一定の情報・教養と「合理性」を''共有''することで、一つの「正解」が目指されることになります。


僕が先の記事で書いた「例えば既に死んでいる作家と、作品を通じて「相互理解」するのは、どのように可能なのでしょうか」という問いには、今回答えていただけなかったのですが、あえてもう一度問うならば、そのような「正解」は、いったいどのように確定されるのでしょうか?


僕は、作品は作家の意図を超えてあるものだと思います。ありていに言ってしまえば、作品を見て(入試問題を解くように)「正解」を目指してしまうのは、魅力的な行為とは思えません。


大筋の主張は、これだけです。以下は、今回だされた疑問への応答です。


1.作品の独立性について

まず、今までの僕の文章が極端な書き方になってしまっている点は、謝罪します。今回はもう少し、現実的な書き方をします。
作家の意図を、作品から読取ることも、作家が作品のコンセプトを主張することも、もちろん一般的です。ようは、そこで「作家と観客の相互理解」が目的化してしまうと、作品が作家の意図(正解)を表す/読取るための「手段」となってしまうということです(作品の奴隷化)。そこでは結果的に「相互理解」が残り、作品が原理的に消えてしまいますから、「作品」を問題とする議論においては、このような場面は、取り上げる意味がありません。


くり返しになりますが、現実には、そのようなことは頻繁に行われます。作家(あるいはその周囲や状況)の語る「物語り」だけを追い、作品が「挿し絵」のようなオマケとなってしまう事態や、美術館で、解説を読んで(正解をみつけて)一安心、という光景はありがちです。これは観客サイドの意識の問題ですが、そもそも、僕がこの討議で一貫して否定したいと思っているのは、最初からそのような「作家の内面や心理の物語」と、その「共有」だけを意図して、作品を作ってしまうような「作家」の側の意識です。もちろん、そのような意識の元に作られた作品でも、結果的に''作家とは無関係に''多様な「誤読」を産む作品と言うのは出現しうるのですが、『件の「球体関節人形展」』においては、なまじ工芸的に破綻なく作られているせいか、見事に「作家の内面や心理の物語りの説明」をし、それを観客と「共有」しようとするモノばかりだと思えました。


こういった状況への批判という意味もあって、僕は「作品と作家は無関係」と書いたのです。作家と観客が「相互理解」してしまう−正確には、相互理解した''つもり''になってしまう状況が、むしろ一般的だからこそ、あえて「それは作品の経験とは呼べないんだ」と言いたいわけです。


2.作品評価の根拠について

「paint/note」では、美術作品の評価において「批評性」の有無が重視されていますが、その批評性の有無を判断する何らかの(他者と共有している)基準はあるのでしょうか? もし無いのであれば、それは単なる印象批評と何処が違うのでしょうか?

共有という言い方が適当かどうかはわかりませんが、とにもかくにも批評というものを成立させているのは「文脈(コンテキスト)」です。人は何の意味も関係性もない、まっさらな場所に生まれてくることはありません。無数の「意味」を産む「文脈(コンテキスト)」に満ちた世界に生きています。かつて米国の美術批評家は「わたしがポロックを見い出したのではなく、マチスが評価されるような世界であれば、いずれポロックは評価されたのだ」と語りました。問題は、そのような「文脈(コンテキスト)」に対して、どのように向かい合うか、だと考えます。


おうおうにしてある事ですが、そのような文脈を吟味せず、単純に批判することは、逆にその文脈を強化することに繋がります。例えば、ハイカルチャ−を批判することで、逆にそこで前提とされている「ハイ」という概念が強化されてしまう場合があることは、前回の記述でも述べました。


そのような、自らの在り方を規定してしまっている「文脈(コンテキスト)」を踏まえた上で、そこにどのように対峙するか。その試行錯誤を、とりあえずは「批評」と呼んでいいかと思います。


なお、「はてなダイアリー」のキーワードリンクは、基本的にはてなダイアリー利用者の解釈によって記述されており、場合によっては一般性をもちません(現在、はてなダイアリー内部でも混乱した議論が続いています)。「はてなダイアリー」外部の方にとっては分かりにくいかと思いますが、今回の「批評」についての「はてな」の定義は、僕の議論と切り離して考えていただければ幸いです。


また、「いもじな日々」での、批評という行為にまつわる権力性に関する指摘は犀利であり、事実です。問題は、そのような権力ゲーム批判自体が、さらなるメタレベルに立とうとする「権力ゲーム・プレイ」として「機能してしまう」という文脈があるということです。権力ゲーム批判をする人が、そのようなことを考えていなくても、あるいはそれ故に更に強力に、この「メタ権力ゲーム・プレイ」は機能します。


3.「美術の進歩」について
この討議は、既に例え話の妥当性という、あまり生産的でない局面にたちいたってしまいました。反論をひかえます。


4.サブカルチャーの評価について
この部分も、すでに主要な討議は終わっていると考えます。

現在の「球体関節人形」という創作分野は、非常に多面的な、「境界領域」と言うべきものであり、芸術(美術)や工芸や玩具(愛玩品)製作といった様々な領域に面しています。

この記述は示唆的であり、考えさせられるものだったことだけを記して、反論等は控えます。