下妻物語

映画「下妻物語」をビデオで見ました。同居人が劇場で見て絶賛してたので、僕もぜひ映画館で、と思ってたけど、結局自宅でレンタルビデオ、という事に。


この映画を駆動させるエンジンになってるのは土屋アンナ=イチゴの演技だと思えます。舞台となる茨城県下妻は、首都圏の郊外/田舎として完結してる(なにしろ、なんでもジャスコ!で揃ってしまう)し、その場所から浮いてる主人公の桃子も、彼女独自の在り方で完結しています。どちらも静止していて、いってみりゃ終了済みの世界です。そこに唯一の揺らぎとしてイチゴが介入するのですが、このイチゴの桃子への介入は「誘惑」と言いたくなるようなものです。この誘惑が作品をドライブさせ、観客を巻き込んでいくように思えるのです。


完結し、静止している(死んでいる)桃子がイチゴの介入によって回路を開き、生き返る物語りで、桃子が主人公でイチゴがわき役というのはよくわかりますし、そこに深田恭子土屋アンナを配した監督のセンスと脚本の巧妙さ、演出の上手さがこの映画の「面白さ」を作ってるというのは確かだと思うのだけど、この映画が「面白い」だけでなく、それを超えた「輝き」をはなっている部分があるとすれば、それは監督の手腕から溢れている土屋アンナの演技によるのではないでしょうか。


この映画で配されているのはキャラクター、人物タイプであって「人」ではありません。深田恭子は''ゴスロリ少女''を、土屋アンナは''ヤンキー''をステロタイプに、記号的に表象することが求められていて、原理的な意味での「演技」は必要ないのです。事実、深田恭子は見事にその要求に沿って「ひねくれたゴスロリ少女」をマンガ芝居で演じています*1土屋アンナに求められているのも同じものです。この映画の「面白さ」はゴスロリと下妻とか代官山とヤンキーとか暴走族と牛久大仏、といった「形」の対比でほぼ事前に定められており、あとはテンポとか映像のキレが勝負所になっています。そして中島監督はそういう「形」の「面白さ」を脚本の段階で周到に担保した上で、あとは自分の映像に賭けているので、ぶっちゃけ「役者の演技」は全然求めていません*2


実際「演技派」が揃っていると言われるサブの俳優陣も、器用な芸で人物タイプ=キャラクターを記号として演じていて、「演技」していません*3。そんな中で、たった一人「役者としての演技」をしているのが土屋アンナなのです。


演技経験のない土屋アンナは「芸」がないからだろうけど、全編にわたって「一生懸命」である他はありません。で、その一生懸命が、見事に自己防御に向かわずに「自己開示」を指向し続ける。これは注目すべきことで、経験のない下手な役者が一生懸命になったとき、そのほとんどは自己防御に向かうものなのです。具体的には、この映画でならヤンキーというキャラクターの特長的イメージ、ヤンキー「らしさ」を戯画的にボルテ−ジを上げて演じることになるでしょう*4。しかし、この映画での土屋アンナは、少なくとも演技の面ではヤンキー「らしさ」を必要最低限しか身にまといません。衣装やメイクなどの視覚的ギミックに騙されていると見えにくいのですが、特に深田恭子と絡むシーン、深田恭子に近付いたり、接触する場面で非常になまなましい「ためらい」を見せたりする。こういった隙や危うさが、桃子の回路を開くだけでなく、観客をも画面に引込んでいるのではないでしょうか。


そして、こういう、自らを危うい場所に追い込んで自分を「開き」、共演者も「開き」、その結果観客をも開くことを、厳密な意味での、役者の演技と言うのだと思います。


経験豊富な(芸)人達が、プロフェクショナルに演技を捨て、段取りとテンポ、パターンの反復を見せ続ける中で土屋アンナのぎこちない一生懸命さだけが「役者の演技」として成立しています。この映画は非常に意図的に色彩が使われていますが、実際に色付いてみえるのは、こういった土屋アンナのふとしたしぐさや視線の動きだけです。そして、その土屋アンナの繊細な一生懸命さが徹底的に深田恭子演じる桃子に向かい、桃子を求める「イチゴ」となった時、そこには「女の子の友情」を描くという監督の意図を壊す、ある種の官能性を醸し出してしまいます。こここそが、緻密と言っていい映画「下妻物語」が崩れる瞬間で、こういう高度なこわれ方をした所が、この映画を単に良く出来た商品、というだけではないものにしたのではないでしょうか。


こう書くとすぐ「それはキャスティングが良かっただけだ」などと言う人がいるんだろうけど、それは話が転倒しています。土屋アンナがよかった結果「キャスティングが良かった」と言われるのであって、土屋アンナがつまらなかったらミスキャストとあっさり言われる筈なのです。もちろん中島監督の判断はすばらしかったのだろうけど、これも同じ転倒の結果で、少なくとも土屋アンナの演技に関してだけは、土屋本人が評価されるべきだと思います(おそらくそのことを一番わかっているのは中島監督だと思います)。


こと演技に関しては土屋アンナ以外の全員が技術的に「テレビ」しています(それを監督が求めている)。深田恭子も作品の要請からギリギリまで人形芝居をしつづけ、クライマックスのケンカシーンで初めて良いキレっぷりを見せるけど、この人はやはり以前テレビドラマですれっからしのキレるキャラを演じていて、本来的に怒鳴り芝居が上手いタレントなのです。キャスティングが決まったと言われるのはこの深田恭子に関してであって、土屋アンナは違うと思います。


土屋アンナ演じるイチゴは弱く、寂しく、不安定です。その弱さ、その揺らめきが「強く」閉じている桃子を誘惑している。その誘惑が作品の意図を超えてセクシャルな眼差し、仕種になっている。そういった演技はキャラクタータイプをオーバーアクションで見せることからは出てきません。恐らく土屋アンナは脚本をしっかりと読み込んで台詞を叩き入れ、役柄を徹底的に考えて練り、脚本に書かれていないところまでイメージを膨らませてイチゴと自分の接点を探り演じるという、極めて古典的な役者としての努力をしていると思えます。その実直な一途さが「イチゴ」というキャラクタ−と一致したのは監督の手腕であり、幸運でもあった、というのは間違っています。土屋アンナの一途さが、ああいったイチゴを造形したのです。


ああ、面倒くさい。ぶっちゃけ土屋アンナに惚れました。それだけです、はい。え?イケメンと出来ちゃった結婚した?そんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
下妻物語の公式サイトは以下。

*1:もちろんマンガ芝居という「技術」が発揮されているので「下手」とはちがいます

*2:マンガ芝居、は厳しく要求していたでしょう

*3:生瀬勝久宮迫博之を見よ。

*4:阿部サダヲ篠原涼子がそういう「演技」ではない「アクション」を見せています