観光・イタリアルネサンス(15)

だいぶん記憶が薄れてきた。やばいな。なんか忙しくなってきたし。


●ジオット2
フィレンツェ最終日の朝に行ったサンタ・クローチェ教会は、塔がイントレに囲まれているのにもまして、内部がすさまじい事になっていた。どこも修復中の建物ばかりのフィレンツェだが、この教会は内部の、特に主祭壇付近と各礼拝堂が全面的に足場で覆われていた。以前にあったアルノ川の氾濫で大きな被害を受けたのが川面から程近いこの教会で、ジオットの壁画「聖フランチェスコ伝」も、足場の隙間から覗き見るような形になっており、到底良好なコンディションでの鑑賞とは言い難い。来訪者のことが考慮され「見られない」ようにはなっていない事をありがたがるべきかもしれない。


建物自体は天井が木造ということで、少し面白いつくりをしていた。見上げると木の部材が組まれた構造がまるまる見えて、教会というよりは体育館ぽい表情がある。昔の建築家が「納屋みたい」と言ってバカにしたらしいが、コルビジェなどはこの教会が好きだったそうだ。身廊は広く明るく、有名な人のお墓が多いにしては湿っぽくない。回廊はギャラリーとして使われていて、すっかり痛んで剥落が激しいチマブーエの十字架像や、タッデオ・ガッティ作の「生命の樹」なども見られる。ここも天井が木造だ。そんな中にジオットの祭壇画があった。本来あるべき礼拝堂から、修復の期間のみ回廊に移されているらしい。こちらは人気のない空間で、かなりじっくりと見る事ができた。


バロンチェッリ祭壇画と呼ばれるこの作品は、板にテンペラで描かれている。1334年の作品とされている。縦長の画面の上部がアーチを描く板絵が、中央のひとまわり大きい板絵を挟んで左右に2枚づつ、計5枚で構成されている。中央パネルには聖母マリアに戴冠するキリストが描かれていて、二人の足下にはそれぞれ天使が2人づつひざまづいている。この板絵のみ、上部のアーチが途中で途切れ、祭壇の飾りのある枠にトリミングされている。左右のパネルには、非常に多くの聖人や天使が、全員でマリアとキリストを見上げて描かれている。全ての登場人物に光輪が描かれている。下部には各板絵に併せて5枚のプレデッラがあるが、こちらはジオットの手になるものかは分からない。


この絵で最も目が惹き付けられるのは、イエスでもマリアでもない。左右2枚づつ、計4枚の脇役的な板絵が目立つ。数十人もの聖人や天使の、聖母に戴冠するイエスへ向かって集中する視線が、見るものの目をイエスに“誘導しない”。むしろイエスと聖母を見上げる聖人・天使そのものを注視させ、イエスと聖母を視界の盲点に隠してしまう。これは、各聖人や天使の光輪の異常なまでの反復が、ただ一つなるイエスや聖母よりも強く画面を支配しているからだ。この光輪が、単に多いというだけでなく増殖していくかのように見えるのは、むろん偶然ではない。上部でアーチを描くゴシック的なフレームすら幾重にもくり返される円で縁取られている。この円は聖人達の光輪とほぼ同じ大きさをしており、この事からもバロンチェッリ祭壇画が、同じ大きさの円がはてしなく反復される事で成り立っている絵だということを裏付けている。


聖人達は、遠近法に従っていない。ビザンチン的な逆遠近法も(盲点となる中央の板絵を除いて)使われていない。多くの脇役達はほぼ同じ大きさで密集しており、当然その一人一人に一つづつ付けれらた光輪もほとんど同じ大きさになる。まるで後期ゴシックの様式の中に、リキテンスタインのドットが現れたような、極端な印象がこの強迫的なまでの光りの輪のくり返しにはあって、結果的にこの、引き立て役に過ぎないはずの左右4枚ばかりが目に訴えて来ることになる。


中央、主役のマリアとイエスの影の薄さは、無造作に祭壇の都合に合わせて切り取られてしまったアーチ上部の扱いにも見られる。かなり豪華な祭壇画のフレームは重厚で、冠を受けるマリアのうつむいた仕種は、まるで祭壇に従属を強いられ圧迫されているかのようだ。このような中央板絵のアーチの切断が、ジオットの当初のプランに入っていたのか、それとも後世の処置なのかは、この場合大して意味をなさない。ジオットの手によってではなかったとしても、後にそのように扱われてしまう性質が、このメインとなるべき板絵にあった事がわかればよい。


板絵は金地で縁取られているが、この金地は左右の板絵の上部にわずかに開いた空間と連続し、それがそのまま画面下まで及ぶ無数の光輪まで延長される。すなわち背景-地である金地が、空間的には手前にある筈のところまで侵食している。強く輝く金色は図となるべき聖人や天使よりも遥かに強く手前に浮き出て来る。逆に中央のマリアとイエスのいる板絵だけ金地は枠のみに留まり、その背景は暗緑色に塗られている。つまり金地の面積比、輝きの強さでいえば中央が最も暗く沈み込むことになる。円の反復という視覚効果だけでなく、その明暗対比でもマリア・イエスの場面は盲点となる。


ウフィッツィ2室にあるジオット「荘厳の聖母」では、遠近法の導入による連続空間の中で大きく描かれた聖母子が、まるで魚眼レンズを通して見たように周辺の聖人や天使から拡大されフレームアップされている事は記述済みだが(参考:id:eyck:20060119)、このバロンチェッリ祭壇画では反対の事態が起きている。つまり凹面鏡に写ったかのように、主題となる聖母戴冠が視覚的に穴となり、周辺が拡大されている。注視されるべきものが盲点となり、(絵の中でイエスを)注視しているものが(絵の外から)注視される、そしてそのようにして「見えなくなった」ものが、やがてあぶり出しのように、こう言ってよければ想像的に知覚される。本来表象できない何ごとかを表象を通して描く、というというこの絵の構造は先行してあった「荘厳の聖母」よりも複雑さを遥かに増している。


その屈折した視点の導き方はこの絵にある種の難解さを与えるが、その迷宮的な構築は、バロンチェッリ祭壇画に数百年の時間の経過を忘れさせるほど普遍的な「面白さ」を付与している。このような「面白さ」は、後続の時代にあってはむしろ貴重になってゆく。というよりは、ジオットのような存在は、いつどのような時代であっても貴重なのだろう。初期ルネサンスから遡行してゴシックの再評価に繋がるのがジオットなのではない。面白い画家はいついかなる状況にあろうと単独で面白いのだろうと思う。