芸術や、芸術を学ぶ事が役に立たないとか浮世離れしている、みたいな言葉は間違っている。芸術が、自分と、自分の周りの世界の関係を、材料や概念や言語・記号等の操作を通じて把握し、より積極的に組み替えていこうとする思考のことだとすれば、それは、この世界で生きて行こうと思う人には、専門に学ぶかどうかに関わらず常に必要なものになる。もっと極端に言えば、分節のない混沌(自然)の中に、自立した系を仮構して、その系が常に周囲の混沌(自然)と一定のやりとりをしながら代謝していくこと、つまり生物というものの最も基本的な(ゾウリムシとかボルボックスとか)姿に「芸術」というものの核は見いだせる。それはけして工学的なものに還元されない。混沌と系の間にあるものが単なる等価交換(工学的循環)ではないということ、例えば「より積極的に」と言った瞬間、そこには価値判断が必ず生まれる。


等価交換(工学的循環)であったら、系と混沌は分節されない。泥がただその状態を変えても泥でしかない。無価値から価値を指向するのが「有用」さの本質なのだとして、既にそこには価値-資本の運動がおきている。そこで価値とは何か、という問いを発した瞬間、その問いは謎を含んでしまってシステム的には解明できなくなってしまうのだ(貨幣が「貨幣とは何か」という謎を内包しているように)。芸術とは最も大きな価値の事で、この謎こそ芸術の問題なのだし、だとしたら芸術と無縁なものなど世界に何もなくなってしまう。現実離れしている芸術、とか、役にたたない芸術、というような言い方は、だから、落ち着いて考えれば、成り立ちようがない。芸術を含まない現実はないし、芸術的思考がなければ人は1日だって生きていくことはできない。これは比喩でも誇張でもない-生きているということは、もうそれだけで芸術への契機を膨大に抱え込んでいるのだと思う。それを自覚的に展開していくのが芸術家とよばれる営為だ。


「役に立つ」と一般に言われているものこそ抽象物なのではないか。それは複雑で膨大な世界から、一部を取り出してトリミングし、モデル化して様々な要素をそぎ落とした世界の一部のおもちゃで、分かり易くて簡単ではあるけど、それは決して世界そのものを相手にした代謝ではない。効果的だ、というものの有様を良く見てみると、要するに効果がはっきり確認できるように小さな枠組みを用意してその中を世界から隔離して、そこで単純な仕掛けを作っているだけのことで、そのような隔離こそ抽象だと私は思う。謎を切り離した明快さこそ「現実離れ」だと思う。有用さとは何か、という問いを問わない「有用さ」は永遠に手に入らない。面白さとは何か、という問いを問わない「面白さ」は永遠に手に入らない。幸福とは何かを問わない「幸福」は永遠に手に入らない。世界を何一つ損ねることなく、矮小化することなく、抽象化することなく、関係を持ち代謝してゆこうとした時、現在、芸術以外の思考回路がどこにあるというのだろう。


芸術はお金と無関係ではないし現実と無関係でもないし社会と無関係でもないし私や私の生活とも無関係ではないし誰のどのような「生」とも無関係ではない。その全てを含んで、その全てを支え、動かしている機構そのものだ。あるいはそのようなものこそ現在の芸術なのだ。経済でさえ「世界」のごく一部の抽象的トリミングだし言うまでもなく宗教もトリミングだ。だからそこにはモデルがあって、モデルがあるということは抽象物なのだ。芸術を学び、芸術を扱えるようになることは世界と自分の代謝関係を扱えるようになる、ということで、こういう事を言うのは本当はいやなのだけど、信じられないほど「役に立つ」。例えば、芸術を学べば、「価値」と適切な関係を結べるようになる。もっと直接的に言えば、価値というものを、限定的ではあるけど自分自身で組立てて自立したものとして扱えるようになる。つまり誰かの作った、自分のものではない「価値」からある程度距離を持って生きていけるし、必要に応じて自分自身で自分の「価値」を構成できるようになる。


芸術を学べば、自分に必要な額のお金がはっきりする。自分に必要な場所が構成できる。自分に必要な人間関係がクリアになる。自分の周囲の、与えられた環境から常に自立的な系を構築してそこで世界と代謝できる。どんな悲惨な環境であっても、自分の設定した「価値」に対してぎりぎりなんとか可能な線を見つけて生きて行ける。相当な程度不幸という観念がなくなってしまう。いや、不幸から自分が無関係になってゆく(不幸とは即ち自分で価値を操作できず他人の価値に隷属することだ)。芸術は、他人や外部が設定した価値に対して一切有効性はない。それ自体が自立した価値の系を操作するのが芸術なのだから、「お金持ち」になることも「貧乏」になることもない。お金持ちだろうが貧乏だろうが、そういう環境から常に自立した系を設定できるようになる。芸術を学ぶことはお金持ちになる方法を学ぶことではなく、同時に貧乏に耐えて行くという選択でもない。お金があろうが無かろうが、そこから自立な系を立てて、やたら不幸にも過剰に幸福にもならずに、自分の系を繰り広げていくことが出来るようになる。


だから、経済環境が厳しいから芸術を学ばないとか、芸術家になることを諦めるとか、そういう考え方は全面的に間違っている。あえていえば、経済環境が厳しいからこそ人は芸術に真剣に取り組むべきなのだ。