ちょっと前に、Nichido Contemporary Artというギャラリーに立ち寄ったら常設展というのをやっていた。ソフィー・リケットという人の写真作品が気になった。作品は3つあり、一つは女性が路上で放尿しているモノクロ写真で、縦長のもの。一つは横長のフォーマットでカラー写真、扉ののぞき穴を見ている女性が写っているもの。もう一つは4枚組で、おおよそ正方形のプリントが間隔を開けて横に並べられたもの。照明で照らされた芝生が下半分、暗闇が上半分を占めていて、向かって一番左のプリントにだけ、右に向かって座り前方を見ている人物が写っている。この作家に関しては何も予備知識がないのだけど、この3作品は不可視なものを見る、という主題が一貫している。公共の場での放尿は一般に男性に象徴的な行為で、女性がそれをする、というのは通念上「隠された」ことだろうし、覗き穴から何かを見る、というのはまず覗き穴の向こうからは見えていない場所の(つまりこれも「隠された」行為だ)撮影だ。そして、照明に照らされた芝生に座る人物が見るのも、闇に隠された空間になる。


私がこれらの作品から感じ取ったのは不可視のものがしかし見られている、という状態の質のようなもので、そういった感触がくっきりと定着されていたのは4枚組の、夜の芝生を撮影した作品だと思う。具体的には、鮮やかに照らされた芝生の緑と、狭いグラデーションを挟んで広がる暗闇のコントラスト、及びその隅に配された人物の視線が闇へと投げられている、心理的な記憶の呼び出しの効果の、渾然となったイマジネーションにひっかかったのだ。ソフィー・リケットの写真には、とてもプライベートな感覚がある。それは、例えば密やかで個人的なシュチエーションを撮っているから、ということではない。そのような写真はありふれている。シュチエーション(設定)ではなく個々のショットに「今、私は誰にも見られない筈のものを、カメラを通して捉えうる」という一種の確信(それを「孤独」とは言いたくないのでこういう言葉使いになるのだが)が示されているのだと思う。もちろんこのような感覚-感情は主観的なものでしかないのだけれど、こういう主観性は、しかし主観的であるがゆえに揺るぎなく強化される。


3点しか見ていない段階でこういう事を言うのは危険、というか予断というべきものだけれど、私はソフィー・リケットの作品の個人的な現れ方は、人工の光の捉え方がとてもシャープであることに技術的な裏付けがあるように思う。例えば夜の郊外を照らすナトリウムランプや水銀灯の光の切り出す光景の捉え方が、とても上手いのではないだろうか。夜を歩くとき、誰もいない空間が、街灯で明るく照らされている場面に出会うことはよくある。そのとき感じられる独特の感覚、つまり、誰にも観察されていない場所が、しかしくっきりと実在して、しかもそこから「私」が立ち去った後も照らされ続けている(存在し続けている)ということへの驚きと、どこか甘い時間への郷愁のようなものが、彼女の作品から惹起されるのだ。私の見ていないものが、しかし私の見ていない時も、私からは切り離されて、個別に存在しており、しかもそのような「私と関係ないもの」が、一瞬私と交錯してしまった事への奇妙な安堵。


それはナルシシズムに近接しながらはっきりと異なる。むしろ「私」に「私」と無関係なものが立ち現れ、世界から「私」が消えてなくなっても、世界はまったく何も変化せず「私」から独立してありうるのだという“不条理”に、「私」がどこか許されてしまうという事態の定着だ。私が見ている「私」、という存在の重さから、人工の光は私を許してくれる。世界は「私」が能動的に知覚しているときにだけ存在しうる、という認識は、近代的人間の主体の生成として、一人の「私」にとってある過酷さとしてある。机の裏側は「私」が見なければ現れない。逆に言えば、机に机としての奥行き=存在を保証してくれる超越的存在はありえない。この苦しみを近代、と呼ぶのなら、写真という機構はその苦しみを少しだけ肩代わりしているのではないか。もちろん写真は客観的/超越的視点を保証してくれる魔法の箱ではない。しかし、ソフィー・リケットのごとく光を刻印できた場合、カメラは一瞬だけ世界を認識する能動性を獲得し、その分近代的主体は「軽く」なることができるように思う。展覧会は終了している。