メゾンエルメス8Fフォーラムで、ディディエ・フィウザ・フォスティノ「Agnosian Field」展。レンゾ・ピアノによるガラスブロックの空間の中で行なわれている建築家による展覧会なのだが、建築模型は会場の目立たない場所に小さいものが一つあるだけで、いわゆる建築展とは様相が異なる。

  • エレベーターを降りて最初に目に入ったのが、ハの字型に床に立てられた、クリーム色の木の板にアルファベットがくりぬかれたもので「State of Unreal」「Estate of Real」と、ごく荒く抜かれている。その抜かれたアルファベットは床に落ちている。くりぬかれた際の木屑も一緒に散乱していて、清潔な空間にそこだけ廃墟的な雰囲気が漂う。
  • また、金属の三脚に長い棒がつけられ、その先にU字型のヘッドレスト状のものがつけられたものが3つ置かれている。自分の頭の高さに合わせ、黒く布ばりされたヘッドレストに向かって顔を押し付けると視界が暗転し、同時に耳に音が聞こえてくる。最もエレベーター側のものはノイズの中にどこか人の声らしき高低の変化が聞き取れる。真ん中のものは自然音(虫の羽音などが聞こえる)。奥のものは、さーっというフラットな風音のような音が流れている(この音はラッセル・ハズウエルによるとパンフレットにある)。
  • ガラスブロックの立面と反対にある、一段天井の低くなった壁面に小さな液晶モニターがかけられている。白人の男性がゴム状のものを顔につけ、何かを噛んでいる。噛んでいたものを吐き出し、自分の顔に貼付ける。そこでこの男性が噛んでいるのがガムのようなものであることが分かる。貼付け終わったら新たなブロック状のガムを噛み始める。男性の顔はどんどんと吐き出されたガムで覆われる。
  • この会場の入口だったエレベーターの方へ戻るようにあるくと、そこだけ建築の構造上狭くトンネル状になった箇所に、薄い1枚の素材で作られた、縦長のドーム形状のオブジェクトが台座に乗せられてある。おそらくこの上に座るように作られているが、見た目に強度の不安を感じさせる。
  • 一度狭くなった空間を抜けると再び天井の高い空間がある。金属の板で作られた、サークル状の囲いがあり、一部が途切れている。その途切れから中に入ると、組み合わされた金属板で円形のベンチが形成されている。2つごとに隣と視界を遮るような遮蔽板が顔の高さに設置されている。係員の人の説明で、この2つごとのベンチの「真ん中」、つまり切れ目に座るよう指示される。
  • 壁に先ほどのヘッドレスト状のものと似た形状のものがあるが、それが付けられているのは棒ではなくトラメガ(拡声器)で、これには音が流されていない。
  • その向こうには大判のパネルに漫画家(奥浩哉)によるイラストが描かれている。パネルは床に垂木をかませその上に載せられ壁に立てかけられている。イラストの内容はこのビルがある銀座の一角を舞台に、展示されたトラメガのヘッドレストに顔を押しつけた人物の胴体が一部輪切りに消え去っていて(断面に内蔵が見える)、その人物の後に行列が続いている。背景ではビルが巨大なロボットのようなものに破壊されている。周囲では多くの人が逃げ、あるいはロボットによるビルの破壊を携帯で撮影していたりする。
  • 入口だったエレベーター間で戻ると、その反対側に小さな建築模型が設置されている。V字型に二つの細長い建築が接合された模型で、接合部分はやや入り組んだ、相互に噛み合された構造になっていることが開口部から見てとれる。


一つ一つのオブジェクト、というよりは「装置」を経験していくにつれ、徐々に人の体、あるいは知覚について意識がされていくことになる。三脚にヘッドレストが付けられたものは、その高さが観客毎に変わり、自分の前にこれを体験した人の身長がおおよそ推測される(その人との自分の大きさの差も)。視界が消え去り音だけを聞かせられる様子は聴覚検査のようでもある。ガムをかんで顔に貼付ける映像は生理的で嫌悪感も感じるが、同時に味覚や顎の力(ガムを延々と噛むと感じられるであろう疲労とか)も想像させる。脆弱に見える椅子は自分の体重やバランスを想起させ、サークル状に囲われたベンチは遮蔽されながら隣り合う人との微妙な距離感が想像される。トラメガとその使用をイメージさせる漫画イラストは強力な情報のインストールによる世界認識の変容をSF的にイメージさせる。


表裏の関係に置かれた「State of Unreal(非現実的の状態)」「Estate of Real(本当の場所)」というメッセージは、いわば建築における「空間」が前提的にあるのではなく、いわば知覚に対する事後的な立ち現れとしてあることを感じさせる。ここにフォスティノの建築というものに対する理解が表明されているように思える。俯瞰的に空間を操作可能なものとして扱う「建築」を廃棄したフォスティノが提示するのは、いわば現象学的な認識と言っていい。世界を所与のものとして前提せず、与えられた信号への反作用のように「場」を抽出していくこと。やや飛躍すれば、この展覧会で展示されているのはエルンスト・マッハの描いた絵のような認知(長椅子に座った人物の視界を描いているのだが、その視界を見ている人物の鼻梁まで描かれている)に近くはないだろうか。このような認識は、例えばネットに代表される情報技術社会に、不思議にぴったりとフィットしているように思える。


無論、このような認識は、構造主義以降のパラダイムから批判できる。しかし、そこまで「込み」でこの展覧会の可能性を考えることもまた可能だろう。デコン(脱構築主義)以降の建築が、いつか視覚的エフェクトに特化したもの(ジャン・ヌーベルなどを上げておけば十分だろう)に退行しつつあるとすれば、その行き着く先は自明な筈なのだ。率直にこの展覧会の感想を言えば、果たしてそこまで射程距離の長いものだったのかは判断がつかない。むしろ全面的に現象学的認識が表明された内容だと言ったほうが適切かもしれない(いかにも身体性全体をモチーフに取り上げながら、そのプレゼンテーションがごくビジュアルにデザインされ「クール」になされている事も気にかかる)。しかし、そのような展示が、極めてアクチュアルに、今の感覚にフィットしているのもまた事実なのだと思う。だとするなら、このような展示を効果的に感じてしまう自らの「身体」をこそ、改めて批判的に検討すべきなのかもしれない。