演技

昨日のマンハッタン・ラブストーリーは見てないです。今晩にもビデオで。てかみんなこれビデオで見てるような気がするのは気のせいですか。更に言えば、ビデオで見られることを前提にして作られてないですか。一時停止、巻き戻ししながら見るというのがすごく必要なドラマというか。

いつかも書いたかもしれないが、今テレビドラマでは、ほとんど演技という概念、役者という存在がなくなってる気がする。それがいつからかは分からない。テレビドラマに必要とされるのは、ミーハー的人気タレントと、器用な芸人だけだ(お笑い界の人が重宝されている)。今テレビの世界で「俳優/女優」とかいわれてる人は、たいてい「器用な人」であって、「演技する人」ではない。

つい最近NHKでやっていたコメディ「ロッカーの花子さん」でのともさかりえが典型的だ。掛け合いの台詞をテンポよく話し、様式的な「コミカルな動き」をスムーズに反復するともさかりえは、器用だが演技などしていない。渡部篤郎などはミーハー的人気タレントであって器用な芝居すらしていない。小林聡美菅野美穂も、役所広司豊川悦司も器用なだけだ。

劇団出身の演劇人でテレビにも出ている人も同じだと思う。彼等が舞台上でどんな''演技''をしているとしても、テレビドラマに出てくる限り、器用に台詞を話し、器用に身ぶり手ぶりをこなし、器用に表情を作ることしかしない。また、舞台/テレビでの演技の質を変えることができるということ自体が「器用」だ(橋爪功石橋蓮司を見よ)。そうした器用さがない、あるいは不足している役者は、そもそもTVには使われない。

武田真治萩原聖人大竹しのぶなどの、テレビ的ポピュラリティーを持ちながらどうしても器用になりきれず「演技してしまう」俳優は、今テレビから排除されつつある印象がある。そして、テレビから排除されるということは、大竹のように舞台でしっかりした基盤を持っている人を除けば、自動的に経済的に潤わないか、苦しむか、破綻するかしてしまう可能性がある。そして、テレビで演技が排除されてしまった今現在から後の日本では、そもそも「演技」してしまう役者は一生日が当たらないまま、終わってしまう。

さらに言えば、テレビ的な器用な芸は、舞台演劇を確実に侵蝕している。つかこうへいがアイドルを使い、(今回の飛龍伝では広末涼子NODA・MAPが2001人芝居や外国人キャストによる実験を経た今年、松たか子を使う。もうこの流れは止まらないのだろうか。言っておくが、これは決して演劇の商業化が原因などではない。最も非商業的な、無名の若手による小劇場の世界が、実は一番テレビ化が進行している。それは、多分、僕が舞台に立っていた90年代初頭には急速に拡大しつつあった。野田秀樹は2001年から今年春までNODA・MAPを凍結していたが、2001年にこんな事を言っている(http://www.nodamap.com/03presents/13_2001/04from.htm)。

テレビのモニターから流れ出してくるモノは無料である。空気のように吸い込んでいる。しかも、何十年の間。 間違いなく我々は、麻痺し始めている。宗教も哲学も苦手になってしまった、我々日本人の頭の中へ、モニターの中から流れ出てくるものが、どんどん入り込んでいる。そこでは、あらゆるものが短絡的に行われる。長い時間をかけたものは嫌がられ、答えのないものは理解されない。だが、そのはみ出し流れ出してくるものを、もはや、我々は拒絶出来ない。引き受けよう、立ち向かおう。世紀も明けた稽古場で、私は一人そう思った。

僕が問題にしている演技、についてはまた後日。その一部は昨日の註(id:eyck:20031113#20031113f1)にも書きましたので、気になる人はそちらを。