演技論

僕が考えるところの「演技」は、次に示す段階を経たもの。

stage1. 台詞の身体化
一般に「台詞入れ」と言われる段階。台本に書かれた言葉とト書きを覚えること。
単に暗記しただけでは「台詞が入った」とは言わない。人は話すことだけに集中していることは稀だからだ。たいていの場合は、他の事をしながら話す(例えば、家庭などでは主婦/主夫が料理をしながら家族と話す、あるいは、男女がデートで相手の仕種や視線を気にしながら会話する)。だから、基本的には、台詞は「台詞とまるで関係ない動きをしながらでも滑らかに話せる」状態でなければならない。

具体的なトレーニングとしては、丸暗記した脚本を、動きながらくり返し声に出して話す。最初はゆっくりと歩きながら話し始め、徐々に激しい動きに移行しながら、同じことを反復する。走りながら話し、スキップしながら話し、音楽に乗って踊りながら話す。また、極端に大きな声で話したり、極端に早いスピードで話したりもできるようにする。最終的に、全力疾走のような、身体機能の限界に近い状態でも滑らかに台詞が語れるようになれば、一応「台詞が入った」と言える。
これは台詞を無意識に、自動的に話せる状態だ。きっかけさえあれば、どんな状況であっても考えることなく(意識することなく)呼吸するように語ることができる。これが台詞の身体化という状態。

stage2. 目の前の人に対して意識を接続する
第三舞台鴻上尚史が以前、演技の初歩段階のことを言っていたことを要約する。
・あなたが、自分の部屋に、親密な恋人と2人でいたとする。他にはだれもいない。
・2人には信頼関係があって、リラックスしている。
・このとき、あなたは恋人が言う言葉、動作、息遣いに、スムーズに反応する。
・恋人も、あなたの行動にスムーズに反応する。
・そそままの状態で、あなたの部屋の壁の一つが開き、その向こうに観客がいるとせよ。
鴻上は、この状態を演技の最初の一歩としている。上記の「壁面の1つが取り払われた部屋」では、2人の人間が、なんの作意もなく会話し、あるいは沈黙し、時にはばらばらに行動し、時には2人でなんらかの所作をする。このとき2人は、お互いに対してとりたてて警戒感もなければ、過剰な一体化もしていない。これを目の前の人に対して意識を接続している状態とする。

これはけして、「自然な演技」をすることを意味していない。少し考えればわかることだが、おうおうにして他の人を意識しない2人の人間の所作というものは、えてして外部からみれば奇怪なものだ。だが、その奇怪さは、各自の回路が、もうひとりの人間には確実に接続(あるいは必要に応じて切断)していることから発生する。そのとき、同じシチュエーションの同じ台詞は、相手の所作の違いによって、無限に分岐する。「あなたが好きです」「私も好きです」という単純なやりとりでさえ、お互いの所作のちょっとした差によって、様々に変化する。「あなたが好きです」と言った側が情熱的だった場合、受けて「私も好きです」と言う方は、やや戸惑いながらいうかもしれない。あるいはさらに情熱的かもしれない。それは、その台詞を言う2人の役者の関係性と、その瞬間瞬間での気持ちのありようによって変わるはずだ。

「自然」を演じるようなタイプの役者(木村拓哉など)は、このような変化から遠い。彼は常に「自分の想定する自然さ」のみを参照して演じるので、相手の役者の心的状態、また自分の心的状態に無関係に「自然に」演じる。たとえ相手の役者が不自然に行動しても、彼ひとりは不変に自然なのだ。これは演技の最初の段階を誤解していることから生じる。

stage3. 第三者に対して意識を接続する
役者同士が二つの段階を踏まえた場合、様々な応用が可能になる。stage2で例としたような親密な関係だけでなく、敵対的な関係、無関心な関係も演じることができる。だが、それは事前に用意した「敵対的」イメージ、「無関心」というイメージを演じることではない。台詞を身体化し、自分と相手の関係を敏感に感じる状態のひとつのありようとして、敵対的となったり無関心となったりする。役者が複数になり、群集劇になっても同じだ。学校や職場、レストランなどの壁面が1つ開き、その向こうに観客がいるとせよ。
だが、この状態では、役者どうしが接続(あるいは必要に応じて切断)されているだけで、観客は排除されている。次に必要なのは、役者と観客を接続することだ。
stage2で例に上げた「あなたが好きです」「私も好きです」というやりとりを思い出そう。ひとりの役者が、もうひとりの役者に対して「あなたが好きです」と言ったとする。このとき、その場面を見ている観客が「あなたが好きです」と言った役者の所作に違和感を覚えたとしたら、もうひとりの役者は、自分が受けた印象とは別に「観客が違和感を感じた」ことを察知する筈だ。

走行中のバスの車内を想定しよう。ほぼ全員が黙っている車内で、恋人2人が話しているとする。その話声は、だいたい車内の人間の全員に届いているとしよう。その場で、恋人どうしのどちらかが、突然「あなたが好きです」と叫ぶとする。このとき、バスの車内の雰囲気は違和感に包まれるだろう。「あなたが好きです」と言われた側がある程度冷静な場合、そのバスの中の違和感は察知するはずだ。だから、「あなたが好きです」と言われたことに対する返答は、自動的に、目の前の恋人に対する反応だけでなく、バスの車内の他の人々に対する反応も含んでしまう。その結果言われる「私も好きです」という台詞が、バスの中の違和感を汲み取った、遠慮がちな台詞であれ、まるで他の人々の反応を無視しているかのような台詞であれ、その返答には既に目の前の恋人だけでない「観客」の意識も含まれたものとなる。その結果、バスの車内は多少は違和感が中和され、平衡な状態に近付くかもしれないし、より違和感が増し、場合によっては恋人2人にだれか他の乗客が介入するかもしれない。いずれにせよ、話している恋人どうしと、その「会話を聞かされている」他の乗客は、もう無関係ではいられない。これを第三者に対して意識を接続している状態、とする。

演技の上でこの状態が成立したとき、その演技空間は極めて複雑な様相を見せる。台本上「2人の会話」とされている台詞は、全て観客を経由して相手に届く。役者の意識は、相手の役者だけに開かれるのではなく、観客全てに対しても開かれる。その柔軟性が一定の強度を持つと、観客の意識も開かれていく。「意識が開かれる」というのは抽象的な言い方だが、これには「その上で改めて意識を閉じる」ことも含まれる。役者は相手の役者や観客の気配を敏感に察し、観客が過剰に転移してきたら、逆にその接続を意図的に切ろうとすることもある。閉じた観客を引き込むために、自分の意識に隙をつくり、観客を誘い込もうとすることもある。また、観客というのは単一の群体ではないから、ある観客は意識を開いていて、別の観客は意識を閉じているということがある(その状態の方が一般的だ)。そうすると、役者の所作はさらに複雑になっていく。

このような段階に達した演技を、音楽ライブやスポーツ観戦における「会場の一体感」と混同してはいけない。それはむしろ、役者一人ひとり、観客一人ひとりにたいする無限の微分化の工程だ。意識が柔軟になり、敏感になった役者は、相手の役者一人ひとり、個別の観客一人ひとりの微細な反応を拾いはじめる。それにたいする反応が、身体化された台詞と所作によって、さらなる周りの世界全体への働きかけとなる。