かるい、ふかい。

なびす画廊で杉本明広展を見た。こんな感じの作品が、広めのスペースに端正に並んでいる。http://www.nabis-g.com/exhibition/2004/sugimoto-a.html
紙の四辺が折り畳まれて、薄いボックス上になっている。で、できた平面に切込みが入って、窓とか階段とかになってる。そんなに作り込まれてはいなくて、切込みで作られた絵柄?も、平面の面積に対して小さくて、余白が活かされた作品。

静かで軽い作品だ。パネルに張られていなくて、額にも入ってなくて、紙自体もほとんどのものが薄い。だからまず、物理的に軽い。絵の具も乗ってなくて、やたらと手が込んだこともしていないから、作業の「量」も少なくて、だから印象もかるい。

「かるい」というと、軽薄とか、いいかげんとか、そういう風に伝わってしまうだろうか?でもそんなことは、実物を見れば全く感じない。紙を選んで、わずかな切れ目を入れて、その切れた部分を少し折って、四辺を折り込んでボックスにする。そのささやかで「軽い」手さばきで、ただの一枚の紙が、見事に「質」を獲得する。紙が、紙じゃなくて、紙とは違う「何か」に見えてくる。

紙とは違う「何か」というのは、とても抽象的な空間だとおもう。切込みは「窓」や「階段」を形づくっているけれど、それも、単なる薄い紙が「抽象的な空間」に変貌するための道具だてにすぎない。この作家は、窓」や「階段」を作りたいわけじゃない。「目には見えない」けど「目には感じる」不思議なもの。それを、あえて名付けるなら、絵画空間というものになるんじゃないか。

実際、この作家は過去には、普通に平面に絵の具を載せた絵を描いている。それが、紙の四隅を折り込んだものに描くようになり、さらに絵の具がのった部分と、紙の一部を切込んだ部分とが併存した作品になり、ついに、絵の具がのらなくなった。

絵画の絵画性を追っていったら、いつのまにか「紙と絵の具」という「普通」の構造が消えて、「紙で作った薄いボックスの一部を切込んだもの」になっていった、という不思議な歩みを、この作家は見せている。ボックスになって、切込みが入ったから、「絵画」じゃなくなったんじゃない。絵の具を捨て、紙を折り込み、ボックスにして、切込みをいれることで、より純粋な「絵画」に歩み寄った。

だから、「絵画」の「絵画性」は、「平面に絵の具がのっていれば成立する」とは限らないという、とても高度な認識を、この作家は教えてくれる。絵の具を捨てても、幽かに三次元の立ち上がりを見せても、絵画は絵画たりうる。そのギリギリのところを、杉本明広氏は追っている。

こういう試みを見てすぐに想起するのは、フォンタナ(http://www.picassomio.com/art-enlarge.php3?product_id=6257)だ。厳しく張られたキャンバスに、鋭い切れ込みを入れて「絵画」の新しい地平を開いたフォンタナ。でも、杉本明広氏の立っている場所は、フォンタナとははっきりとずれている。フォンタナのような、重い、苦しい自己意識からは、杉本明広氏は遠く隔たっている。それは、具体的には、その作品の成り立ちの違いによっていると思う。

強い張力で張られた厚みのあるキャンバスを、ナイフで切込んだフォンタナとは違って、杉本氏は、紙に無理な力を加えることなく、作品を作る。四辺を折り込むという単純で自然な操作でできた世界に、わずかにカッターを入れたり痕跡を残したりすることで、杉本氏の「絵画」はできあがる。そんなささやかさは、観るものに過度の緊張を与えるフォンタナとは違って、観客を解きほぐしてくれる。狭い自意識の壁に切込みをいれてくれる。

杉本氏の作品には、フォンタナのような強さも厳しさもないかもしれない。そのかわり、そこには軽さと深さがある。そして、多分これから僕達が生きて行く世界に必要なのは、フォンタナのような強さでも厳しさでもないと思う。そんな場所では、杉本氏の作品が持つ、軽さと深さが、物凄く切実に感じられるはずだ。

info
杉本明広展
〜2/14まで
開廊時間:11:30〜19:00(土曜日は17:00にて閉廊)
なびす画廊
〒104-0061東京都中央区銀座1-5-2 ギンザファーストビル3F
地図
http://www.nabis-g.com/nabis/nabis.html