「六本木クロッシング」とは何か(2)

●面白さという強迫(脅迫)
昨日予告のサブタイトルは長いしくどいので、シンプルに。
六本木クロッシング」の会場で、子供、幼さといった要素の他に目立ったもう一つのものは「面白さ」というものです。「笑い」「ユーモア」ということの他、「観客参加型」「プレイ(操作)型」の作品も含めます。

ストレートに観客を笑わせようとする作品、または「ニヤリ」とさせる作品では、タナカカツキ、フジタマ、大木裕之八谷和彦、笹口数、深澤直人(非常口サイン)、東京ピクニッククラブ、会田誠アトリエ・ワンといった作家達があげられます。また、「観客参加型」「プレイ(操作)型」では、エキソニモ、竹村ノブカズ、篠田太郎、渡辺睦子、ニブロールみかんぐみ、といった作家群があてはまります。しかし、これまた、「六本木クロッシング」独自の傾向ではありません。やはりここしばらくの日本の現代美術の流れとしてあるものです。

こういうものが増えてきた背景というのは簡単です。「現代美術はつまらない」「退屈だ」という世評を受けてのことです。20世紀中をかけて、形式化・抽象化の果てに極端な概念操作の世界に突入したと言われる美術は、「市民からの乖離」を指摘されるようになりました。ことに、ハイ・アートがまったくマーケットを形成していなかった日本国内の状況は深刻だったのでしょう。

そんな中、逆に「面白さ」を得ることで、狭くなった美術という枠組みから「市民」の元へ帰還しようとする作家・作品が目立ちはじめたのです。サブカルチャーの圧倒的な隆盛の中、TV、マンガ、ゲーム、ポップミュージック、場合によってはスポーツといった「下位文化」を参照し、急速なテクノロジーの発展も取り込んで、「楽しい美術」「笑えるアート」といったものが増えました。

これは、戦後の読売アンデパンダンなどで、中西夏之その他の作家が行った「過激なパフォーマンス」とはまったく逆のベクトルです。海外にいち早くでた草間彌生なども、たしかにスキャンダラスな取り上げられかたをしましたが、これらの動きは、むしろ「市民的価値観」からの完全な離脱を目的としていました。
「市民」の元へ帰還は80年代後半くらいから顕著になり、90年代に全面化したと思うのですが、とにかく、日本の現代美術のフィールドは、ちょっと「面白さ」を手に入れれば、マスの支持を得られ、「一人勝ち」できるという事態を産みました。美術館も作品も、観客に「面白いねこれ」と言われれば「勝ち組」になることができ、「退屈だ」といわれれば、一方的に「負け組」になる、ということです。

この事態は「現代美術はつまらない」といわれ続けたトラウマをより強化します。結果、美術家も、美術館も、美術ジャーナリズムも、過剰なほど「面白さ」に追い立てられるようになった感があります。「退屈恐怖症」の反動で「面白さという強迫観念」が、日本の現代美術を侵蝕したのではないでしょうか。

この「面白さ」は、根底に「一体感の獲得」を目指しています。それは作家と観客との一体感であり、基本的に「作品」の排除が目論まれています。反美術を表明していた「フルクサス」などに見られる「切断する笑い」とは本質が違うのです。また、この「一体感の獲得」は、日本国内だけでなく、世界的に見られる傾向で(海外では逆に「深刻さの捏造」という形なのですが)、危うい方向性だと、僕は思います。

六本木クロッシングは、いろんな意味でこの十数年の日本の現代美術を総括しています。しかし、それは「面白い美術」の全面勝利なのでしょうか?
僕は、違うと思います。なぜなら、人はすでに「面白さ」に疲れ、「面白さ」に「淋しさ」を感じつつあると思うからです。六本木クロッシングは、「面白い美術」の墓標になるのではないでしょうか。すくなくとも、「終わりの始り」を告げているとは言えると思います。

しかし、単純な形での過去への復帰も、予め禁じられているのです。では、どこへ向かえばいいのか?

まだ次に続くわけです。なんなんだ一体。次回「らせんの垂直性の獲得へ」をお楽しみに。って、こんな文章読む人いるのかね。