「六本木クロッシング」とは何か(1)

さて、10日ばかりかけて「森美術館完全?レビュー」を書いてきました。最初に書いた「女性トイレの作品」はどこへ行ったんだ?とか(本当にどこいったんだろう。あれは幻?)、改めてカタログを読み直すと、単純な事実誤認があるとか、いろんな不備はあるのですが、あえて直しません。予備知識なしで見た第一印象を大事にしたいということです。

「楽しかった」から書きはじめた今回のレビューですが、さすがにこの分量を書くには、ある程度の考えが必要でした。僕の中で「六本木クロッシング」あるいは森美術館への評価は、はっきりしています。つまりイベントとしての成功を評価し、美術という水準はあまり問わない(問えない)、ということです。

もっとも、この事はある程度美術館側も意図的なのでしょう。美術的な評価というものが、そもそもできない(通じない)、という状況判断があったからこそ「展覧会というよりカタログになっちゃった」のではなく「積極的にカタログにした」わけですから。また、あまり気づかれてませんが「キュレーター6人」という選定自体、「キュレーターのカタログ」でもあったわけです。

大文字の「美術という理念」が見失われ、小文字の小作品が散乱しまたたいている、という状況を、「六本木クロッシング」は見事に反映しています。この展覧会の基本的な問題点は、国内の美術自体の問題点であり、可能性が少しでもあれば、そこは国内の美術自体の可能性でしょう。

しかし、そんなことは、ぼくにとって二次的なことです。観客として、また作家として、会場を見て思ったのは、「作品を見る」という行為をしてる人が、入場者数に比べてあまりに少なそうだ、ということでした。そもそも、そういった事をする人は、ここには来ないのです。六本木ヒルズという話題の場所に来て、話題の展覧会を見て、展望台を見て、お食事して帰る。こういった行為に関してどうこう言う必要は感じません。そういう場所として企画され、そういった「ライトな」観客こそが大事にされるべき美術館なのです。

ただ、僕は、そんな会場の中で、ただ呆然と人の波の中で消費されつづけている「作品」があんまりなんじゃないかと思いました(作家、は別として)。で、最初に書いた通り、オリエンテーリングみたいに「どこに『作品』があるんだ」と捜しまわるのが面白かったということもあり、今回の様な「全作品コメント」というバカをやったわけです。全部の作品を「眺める」のではなく「見る」。これが今回のレビューの動機です。

●作品からの印象・幼さという抵抗
レビュー中にも書きましたが、とにかく「子供」や「幼さ」が目につく展示でした。もっとも、これはここ十年くらいの日本の美術の大きな流れです。浅田彰による有名な「かくも幼稚な現代美術」という文章(http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice0110.html)がありますが、ま、こうやってこの状況を一刀両断に切り捨てるか、そうでなければ、その幼さに耽溺してしまうか、の2つの方向しか、僕は聞いたことがありません。
でも、改めてこの「幼さ」を違う視点で見ることはできないでしょうか。すなわち、「世界への違和の表明」あるいは「抵抗としての」幼さ、というように。

実際、大人がロクなもんじゃない、というのは、中西夏之のだらしなさを見れば分かります。また、加藤豪のような成熟は、狭い世界に自らを囲い込んで、そこで何かを洗練させていく、ということで、今の世界全体に向かい合っているとは思えません。木下晋の豊かさと強度を支えている「内面」を、多くの人は獲得できませんでした(個人的に、自分と接点を持てる感じで「成熟」を見せてくれたのは深沢直人や小杉武久といった人々の作品です。また、畠山直哉の作品は作品であることと、メッセージ性が上手く融合していると感じました)。

ダメな大人にならないためには、囲い込まれた塔ではなくこの世界に向き合うためには、内部の貧しい自分が生きていくには、どうしたらいいのか。その探究の一端が小谷元彦の作品や青木陵子伊藤存八谷和彦の作品に見てとれます。子供の未分化な強さや生命力、イマジネーションにヒントを見い出す方向性です。しかし、こういった抵抗は、果たして十分な強度を持つでしょうか?ちょっと油断するとヤノベケンジのように「いい年した少年」になっちゃったり、「生意気」のように若さを楯に今だけ勝ち逃げ(しかも何に勝っているのか不明)みたいな一発勝負で終わり、みたいなことになってしまうんじゃないでしょうか。

ああ、これも終わらなかった。明日『「面白くなければいけない」という強迫(脅迫)』に続きます。