失われた「からだ」

六本木クロッシングやらMOTやらのレビューで、大分借金?がたまってます。これも終わってしまった展覧会のレビューです。
なびす画廊で、寺島ブラディオ展を見てきました(http://www.nabis-g.com/exhibition/2004/terashima-b.html)。油絵の具で描かれた絵画です。古びた写真のようなハーフトーンで、男性のヌードや顔など、「人のからだ」が描かれています。

しかし、この作家の興味は、旧来の「人物画」を描くことではないと思います。あくまで「写真/映像というメディアを通過した、人の姿」に興味があるんじゃないでしょうか。そして、その興味の行き先には、「性」があると思えます。しかし、今回は「性」を迂回した作戦をとったようです。

僕達は、自分の体さえ、メディアを意識して見てしまうことがあります。これが恋人の体だったりすると、更にその身体の「メディア度」は高まるかもしれません。別の言い方をすると、メディアを通した身体には欲情しても、「実際の恋人の身体」には欲情できない、という事態は、今やありふれています。

そんな状況下で、寺島ブラディオ氏は、メディアを通過した身体のイメージを、あえて改めて厚いマチエールの油絵の具と、強いタッチを残す絵筆で、自分の肉体を労働させながら描き直します。それは、まるで失われてしまった「身体」を奪還しなおすかのような作業です。奪還という言葉がロマンチックに響くのなら、メディアの向こうにいってしまった「からだ」を、メディアそのものになってしまった「からだ」を、とにかくも「絵の具で描く」という行為で、改めて確認しているのかもしれんません。

僕はこの作家に、ぜひ女性のからだを描いてほしいと思います(旧作のような「パーツ」ではなく)。「女性のからだ」は、男性のからだとは比較にならない完成度で「メディア」と化しています。「女子とは工業製品だ」と喝破したのはリリー・フランキーですが、いまや町中のごく普通の女性の身体だって、完全にメディアそのものです。テレビタレントの藤原紀香や歌手の浜崎あゆみは、テレビCM等の撮影終了後に、徹底的な画像修正を入れることで有名ですが、いまやその身体は、3Dモデリングで作られた「デジタル美少女」と、その皮膚の質感(サーフェイス)において同じになっています。

寺島ブラディオ氏が、男性の身体を描くのは、そこにまだ「身体の残滓」があるからではないでしょうか。しかし、男性の身体のメディア化の度合が女性のそれに追い付くのも、もはや避けられない情勢だと思います。既に10代の少年達の間では、同世代の少女たちと同等のような気がします。

「ヌード」というモチーフは、今あきらかに男性のヌードのことなのです。しかし、寺島ブラディオ氏なら、改めて女性が描けるかもしれないという予感がします。ヒントは「男女が交差している場面」にあるかもしれませんが、今はそれ以上の言及は避けましょう。