死は許されたか

死について考えるのは不毛だ。なにしろ解答を持っている人間は死んでしまっている。そもそもこんな考え方が間違っているので、死者に死についての感慨などない。死とは常に生き残ってしまった者にとってある。死は死者にとってではなく、死者を取り囲んでいる生者の問題だ。

死が、不幸ではなく幸福ならば(山田花子を参照)、それが解放として成立するなら、そこにはモラルを逸した概念が出現する。自殺どころか、他殺が容認される。しかし、間違えてはならない。問題はエフェクトではなくプロセスだ。つまり、重要なのは死による効果などではなく死への行程なのだ。行程を無視したところに効果はない。

先週書いた画家の山本弘の自殺、それは繰り返される未遂の果てにあった。死ねない自分を確認しながら生き残っていくというのは、厳しい。彼の場合は絵が死を許さなかったのだと思う。彼が生涯を傾けた作品で、本当に見るに値するのは死の前しばらくの間に描かれたもの数点だけだ。ではそこまでの作品は無駄だったのか?そうではない。死に向かう階梯、そのステップがなければあの絵はない。「絵画」に達することができたとき、山本弘は絵画に死を許された。

自分で自分の在り方を決めることができる自由など、どうでもいいことだ。自分の在り方を、決定的に支配してしまう「何か」が刻まれているかどうか。そしてその刻まれたものに向き合うことができるかどうか。向き合うことができたとき、そこにある階段が見えてくるはずだ。その道行きを歩くこと。

一般に、自死した人は辛いことがあったんだろうと考えられる。しかし、僕はそういう考え方をとらないことがある。プロセスの果てに死ねた者は幸いなのではないか。いまだ死ぬ事が「許されない」人間というのがいて、そのほうが遥かに問題を抱えていると思う。