6/3の「いもじな日々」(http://ha5.seikyou.ne.jp/home/seamew/profile/diary.htm)において、僕が書いた5/21の記事(id:eyck:20040521)への応答がありました。
今回、討議用に、「いもじな日々」様のページの形式に御配慮いただきました。ありがとうございます。


まず、提出された疑問に答えておきます。
id:eyck:20040521の僕の「作品が(複数の)他人によって観賞され、それが別の批評なり作品なりを生み出して行く行程は、直線的な「進歩」ではなく錯綜した編み目状のものです。 」という発言に対して、「いもじな日々」様は脳のシナプスの「発達」モデルを例に上げ、それはやはり「進歩史観」ではないかと論じられています。


イメージは明解で理解しやすいのですが、このモデルは実際の美術史の流れに当てはめるには難があります。美術史の展開においては、有史の初期段階において、すでに極めて高い抽象性を帯びた作品が登場しています。古代にラスコー洞窟壁画のような達成をみせている美術史の領域において、以降の流れを発達と考えるのは実情に沿いません。美術史の「脳」はその成立の初期にすでに成熟しているのです。美術の分野で規範とされてきたのはむしろ過去の作品であることは、既にid:eyck:20040521において述べた通りです。


次のブロックが、この討議の最初からの問題点だった部分です。

 我々は、我々が所属する社会の規範や文化から自由ではありません。同時に、一方では、各個人の意識自体は共有できないため、<コミュニケーションのズレ>が必然的に生じます。この問題は、ここで扱うには複雑過ぎますが、いずれにしても、「コミュニケーションが全く不可能」というのは、我々の生きている現実から遊離した判断だとは思います。


ただ、仮に上の引用のような考えを無制限に拡張するなら、美術活動が依拠すべき相互理解の基盤を失うことになります。残るのは、アナーキーな自己表出と印象批評だけでしょう。

僕の論では「コミュニケーションが全く不可能」ということではなく、美術作品の受容と「コミュニケーション」はそもそも違うものとして扱っています。「相互理解」を「美術活動が依拠すべき」ものだとは考えていないのです。
が、僕の提示した例

画面中央に赤い円が描かれている時、それを太陽の表象とみるか、日本の国旗と見るか、単なる幾何学模様と見るか、血痕と見るかは事前に確定できません(作品と作家はまったくの他人)。

にあるような、作家の意図がそのまま伝わるわけではないということが「<コミュニケーションのズレ>が必然的に生じます」という言い方で「いもじな日々」様に了解されているなら、僕の意図は大体において理解されたと思えます。僕と「いもじな日々」様の「ズレ」は、このような事態を、美術作品の受容の場面での例外的事態とみるか見ないか、ではないかと推察します。僕は「必然的に生じるズレ」を例外的事態とは思いません。


単純に言って、例えば既に死んでいる作家と、作品を通じて「相互理解」するのは、どのように可能なのでしょうか。美術において過去の偉大な作品、すなわち死者の作品を見ることは、むしろ中心的な経験だと思えます。

また、

しかし、ここで新たな疑問が湧いてきます。その様にして形成される<美術>制度は、その制度の外で実践される創作活動、例えばアウトサイダー・アートやいわゆるサブカルチャーをどのように扱うのか、という疑問です。 

ここでは認識の転倒がなされています。そもそも「アウトサイダー・アート」や「サブカルチャー」といった言葉自体がハイ・アートを起点として措定されており、近代的<美術>制度を前提としなければ、それに対するカウンターとしての「アウトサイダー・アート」や「サブカルチャー」といった価値規定は成立しません。そういったものの評価は、近代的<美術>制度と相補的なものです。


アウトサイダー・アート」や「サブカルチャー」が「ハイ・アート」として遇されることが、それらの作品にとっての「正当な評価」であれば、そこでは逆に「ハイ・アート」の価値が自明視されていることになり、更にその「外側」に新たなる「アウトサイダー・アート」や「サブカルチャー」が成立して、堂々回りになるでしょう。また、そういった「制度」が消えてなくなれば、そこにはハイもアウトもサブもない「趣味」が散乱するだけになります。そのような状態を「正当な評価」と言うとは思えません。


最後の段落は、若干文意が不鮮明に思えます。
まず僕の「バラバラな「私」を「事後的に」私として引き受けざるを得ない」という発言に対して、以下の応答があります。

(前略)しかし、主観から出発する議論が、現実に直面する問題に対する解答を与えようとすると、必然的に主観的体系外部の要素を持ち込まざるを得なくなります。それが、この文章で言う「責任」です。この「責任」の由来する起源が何なのかを突き詰めて考えれば、上の文章の内容が私の議論の射程内にあることが判るのではないかと思います。

「この「責任」の由来する起源が何なのかを突き詰めて考えれば、上の文章の内容が私の議論の射程内にあることが判るのではないかと思います。」の部分が、僕には理解できませんでした。ご教唆いただければ幸いです。

 重要なのは、記憶が飛ぼうが、価値観が変わろうが、「私」は「私」である、という我々が直面している現実です。
 また、表現活動を行うことによって辛うじて自己を生に繋ぎ止めている者、あるいは逆に自己自体が桎梏であるような退っ引きならない状況に置かれている者。そういう者たちにとって、「自己」とは酔っぱらって記憶をなくしたり、寝たりするだけでチャラにできるものではないでしょう。私はそのような者たちが自己に密着した表現を行うことは、或る意味必然だと思います。そして、或る制度が、そのような表現を評価することができないのなら、それはその制度の限界という他はない、と考えます。

ここからは推測になるのですが、恐らく文脈から言って「アウトサイダーアート」や「サブカルチャー」が「自己に密着した表現」であり、そのようなものを評価していないのが<美術>制度である、ということかと思います。


まず、個人が自己の問題意識から作品を作るという行為は、<美術>制度内部でも存在します。ごく最近僕が鑑賞した中では、堀浩哉氏によるパフォーマンスがそれに対応すると思えますので、よろしければそちらのレビューをお読みください(id:eyck:20040525)。


カテゴリの社会的位置(評価)に関しては、前段で述べた通り構造的なものです。繰り返しますが、「アウトサイダーアート」や「サブカルチャー」を「ハイカルチャー」とすることは、何の解決にもなりません。


僕自身としては、それがハイカルチャーの文脈の作品であれ、その外部の作品であれ、「自己自体が桎梏であるような」状態を解体する(バラバラにする)作品は評価します。最近では押井守氏のアニメーション映画「イノセンス」を、そのような基準で評価しました(id:eyck:20040412)。


僕が評価できないのは「自己自体が桎梏であるような」状態を「演出」し、そのようなイメージをムーディに観客に共有させ、結果的に「自己自体が桎梏である」という自虐的な感覚をナルシスティックに楽しむような作品です。そこでは「各個人の意識自体は共有できない」筈の差異が消去され、最初から「相互理解」を目的として、安易な雰囲気の醸成が目論まれます。そこで重視されるのは作家と観客の一体感であり、自立している筈の「作品」が排除されます。そのような所に、サブカルチャー云々以前に、「作品」などないと思えます。