画像が産む感情

城田圭介展をBASE GALLERYで見てきました。http://www.basegallery.com/exhibit_shirota04.html
こんな感じの作品です。http://www.basegallery.com/img_shirota/sk003.jpg


画面中央に写真が貼られています。そして、その写真内の風景に基づいて想定される「貼られた写真の周囲の空間」を、モノクロのペインティングで描き足しています。
描き足されてはいるのですが、この作家は「写真に写っていないもの」を自分で勝手に要素として加えたりはしません。あくまで写真内の要素を拡張するだけです。ですから、描き足されるのは、空や道や壁など、ルネサンス期以降の透視図法/遠近法に基づいて「延長可能」なものに限定されています。


会場内の説明文では、写真自体は特に何かを狙って撮られたものではなく、ファインダーを覗かず偶然撮られたものであると記述されています。作品に使われている写真がそのように撮られていることは確かだと思えます。しかし上記のような作品構造から考えると、実際には、相応の量の写真から「適した」写真が選別されていると類推されます。


作品の中心に写真が使われていること、周辺のペインティングが遠近法に従って単一の方法で写真から拡張されていること、また使われているのがモノクロの絵の具で色彩がないこと、マチエールを排して絵の具の物質感を排除していることなどから、一見クールな印象を与えるのですが、最終的には、実際の風景には多数存在するはずのモノたちが取り除かれ、広漠さを感じさせる空間の中心にスナップショットがそこだけ色づいて存在する画面となり、観客はそこから何かしらの「記憶」を連想し、そのあいまいな記憶に沿った感情を喚起されることになります。


作家の感情を排した、システマティックな方法が「どこかで見たような気がするけれど、どこにもない風景画像」を作り出し、それが観客の感情を励起するという効果が、この作品の魅力です。写真を元に全て絵の具で描き直される作品や、写真の上に絵の具を乗せるといった、近年の写真と絵画の関係を問い直す作業では無く、機械的に撮られた「画像」が、ある操作によって、それを見る人の「記憶と感情」に作用するという状況にフォーカスを当てた仕事と言えます。


現代においては、画像を見るというのは、既に新しい経験ではなく、記憶とそれにまつわる感情に結びつく「伝統ある経験」となっています。私達は生まれた時から無数の画像と映像に埋もれて生活しており、多くの場合、過去の出来事は文章や絵画ではなく「画像」として保存されます。視覚健常者にとっては、記憶を想起する時は自動的に画像・あるいは映像の形式で脳裏に再現されることがほとんどです。「記憶が画像に再現される」のではなく、「画像が記憶を作っている」のです。


城田圭介展の作品を、近代的な意味での絵画の領域の仕事と見るのは間違っています。そうではなくて、人は現在画像メディアの中で生き、画像メディアの形式が記憶や感受性の大きな部分を形成していることを、新しい切り口で提示する仕事なのだと思えます。広い意味での写真批評、画像批評と捕らえた方が的確かもしれません。

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