重い身体の軽やかな冒険

小山登美夫ギャラリーでヴィベケ・タンベルグ展を見てきました(http://www.tomiokoyamagallery.com/)。


妊娠したヴィベケ・タンベルグ自身の全身のポートレートが、大判プリントで3つの壁面に掛けられています(額装)。一見普通のポートレートですが、よく見ると、身体がデフォルメされて、不自然なポーズになっており、背景の室内も歪められています。残り1壁面には、妊娠して大きくなったお腹を「利用して」、太った中年男に扮したタンベルグのモノクロ写真が、やや小さな額に納められて並んでいます。また、地下の別室では、上記の「太った中年男」が階段を苦労して行き来する様子を撮影した白黒映像がプロジェクターで流されています。妊婦である自分という「(社会的/内面的)配置」をズラし、更に別のものに変換させているものと言えます。


子供を身籠ったことで、妊娠以前のプロポーションから変化した身体を、さらにデジタル処理よって変形させる、あるいは「太った中年男」という変装の「道具」として使ってしまうタンベルグは、自身の身体を完全に素材として扱っています。いわば彼女にとって身体は操作の対象であり、ナルシズムの入り込む余地がありません。また、ある種のユーモアを漂わせる「太った中年男」の映像や、大袈裟な視覚効果を排したポートレートの、方法に基づいたデフォルメの手付きからは、声高なフェミニズム的主張や自虐的自己破壊の衝動も見てとれません。


この作家の興味は、自分の身体を対象化し、そこにある操作を加えることによって「結果的に現れてしまう」自己イメージのブレにあると思えます。そのささやかであっても、生々しいブレが、タンベルグという人間の枠組みを揺るがせています。


身体の自己イメージの変容を扱う場合、肉体の自虐的解体を最初から目的化し、視覚的な刺戟を追求して過剰な演出を施してしまうと、そのように身体を操作している「内なる私」は強化され保護されてしまう場合があります(森村泰昌シンディ・シャーマンを参照)。身体/精神の古典的構図が固定され、そこでは身体を解体すれば解体する程、精神の同一性は強化され、保護されてしまうことがあるのです。


ヴィベケ・タンベルグの製作は、最初から観客の視覚を支配する「効果」の追求とは無縁な場所から始まっていると思えます。浅薄なエフェクトの追求ではなく、プロセスの誠実な実践が行われています。彼女は最初から答えを用意して、それを派手にプレゼンテーションするようなことはしません。自らの身体をモチーフにして試された思考の経緯を、丹念に作品に定着します。そしてその丹念さの中から、ある種の軽やかさ、「アイディンティティ」や「フェミニズム」といった紋切り型のテーマから溢れ出してしまう軽やかな冒険が垣間見えてくるのです。


ヴィベケ・タンベルグ