禁じられた上手さ

なびす画廊で松浦寿夫展をみた。http://www.nabis-g.com/kikaku/k2004/matsuura-h.html
松浦寿夫。知ってるか?なんか名前くらいは聞いたことないか?ホラ、あれだ。なんかヒヒョーとか書いてるアイツだ。柄谷だの浅田だのの出てる対談に、やけに地味に混じってたろ?そう、それだ。顔が思い出せない?大丈夫、それが普通。僕も思い出せない。松浦寿輝と間違えるなよ。寿夫だぞ。


で、そんな松浦寿夫の、別の一面が画家だ。しかも油絵。うわ、地味の上塗り。ボードリヤールみたいに、それっぽい写真とってドクメンタあたりに出してりゃクールなのに、油絵て。僕が松浦寿夫の絵を見た最初の展覧会は、大昔の池袋セゾン美術館(もうないね)でのグループ展だったんだけど、やはりというか、地味だったよ。


どう地味だったかというと、ずばりヘタクソだったのだ。なんか適当な大きさのキャンバスに、黄色だの緑だのの絵の具がズリズリのっけられてる。「鮮やかな筆さばき」とか「斬新なテクニック」とかは、全然ない。フツーにパレットに絵の具出して、フツーに描いてる。タイトル見ると、どうも庭の草木がモチーフらしい。うわー、そりゃ地味だよ。


まわりは一発売り出そうとしてる若い作家の派手な作品で埋まってる。中村一美とか丸山直文とか児玉靖枝とか、そのへんが勢ぞろいしてた展覧会だ。よしあしはともかく、みんなそれなりに人目を引いてる。それなりに上手い。そんな中で、松浦寿夫は目立って「へたくそ」だった。絵の具の扱いに慣れて無い。キャンバスに触れる時に戸惑いがあって、それがそのまま画面に残ってる。余白の残り方が曖昧。学生を終えた直後の僕ですら、もうちっとこう、なんとかならんかなーと思ったものだ。


ま、そんな松浦寿夫がなびす画廊で個展だそうだ。幸い僕は苦労せずに銀座の画廊を見てまわれる。ついでに見に行って、「やーいヘタクソー」と笑ってやるか。そう思って会場に行った。で、そこにあった絵があんまり「上手い」絵だったので、ひっくりかえった。話が違うじゃねぇか。


いや、違わないのだ。絵の具は多分アクリルだけど抽象画で、具体的な形態を感じさせるものはない。確かに、あのヘタクソだった絵の延長上にある作品群だ。絵の具はやっぱり無骨にキャンバスに擦り付けられている。色はピンクとかブルーとかグリーンとか、そのへんのパステル調な感じで、綺麗なんだけどバリエーションはない。画面を「決める」操作とか、人を驚かせるような仕掛けとかも全然ない。画面サイズはむしろ昔に比べて小さくなっていて、ボリュームに迫力を感じることもない。だけど、たぶん、ちょっと「絵画」というものに触れたことがある人なら分かる筈だ。これは、上手い絵だ。


言葉をひるがえそう。これは単純な意味での「上手い」絵じゃない。むしろ「上手さ」を回避して、けして上手さに陥るまいとして、徹底的に吟味され、手探りで達成された絵だ。色数を限定したシンプルな色彩構成、「滑らかなタッチ」を拒否した絵の具の痕跡。マチエールはならされることなく、無理に強調もされない。そうしてストイックに武器を限定して作られた画面には、昔松浦寿夫の絵に感じた「曖昧さ」がなくなっている。絵の具と絵の具の関係性が、その色数の少なさと反比例するように、複雑に交わり、しかも明晰に構築されている。


僕は上で「無骨」と言ったけれど、これはもう単なる「無骨」じゃないかもしれない。表面的な筆づかいの上手さを排除していった中で、それは独自の洗練を見せている。それは松浦寿夫が探し、松浦寿夫が手にした世界だ。「上手さ」というものが隠蔽してしまうもの、殺してしまうものを松浦寿夫は十分知っていて、彼は断固としてそれを排除した。そしてその結果として、松浦寿夫にしか組み上げられない構造を展開したんだと思う。それはもうどんな「上手さ」「派手さ」にも揺るがない。美しい絵画だ。


僕が、自分の目に感じる悦びと共に、少しだけ感じる不安は、今後松浦寿夫はこの洗練を、ひたすら極めていってしまうのだろうか、ということだ。安易な上手さを迂回した松浦寿夫は、確かにその先にある場所に立った。しかし、それは、やはりある種の「上手さ」を獲得した上でのものだと思う。これがもし定式化されてしまえば、そこには思考-試行が消えてしまうだろう。


でも、きっとそれは杞憂だ。なぜなら、こんなにも地道で、地味な探索を長く積み上げてきた松浦寿夫は、まごうことなき「画家」で、その歩みは、今後も止まることはないんだろうと思えるからだ。
会期は残り少ないが、「絵画」に興味ある人は見に行こう。


松浦寿夫