齋藤家万歳

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月
             「椰子の実」作詞・島崎藤村

会場に流れるこの歌を聞きながら、僕はもう流れる涙を押さえることが出来ませんでした。齋藤という家名がこんなにも神々しく、素晴らしい家名だったなんて、不肖わたくし、本年この時この展示を見るまで知りませんでした。悔しい。自分の姓が憎い。そして嬉しい。死ぬ前に、僕は齋藤という家名の偉大さを魂に刻むことができました。


齋藤。齋藤。さ・い・と・う。この展示を見てから、僕は何度もこの家名を口に出して、味わい尽くしています。なんと品のいい、そして愛らしい、家名でしょうか。僕は心底、齋藤の家に生まれることができなかった自分の出自を恥じます。あろうことか、結婚なぞという取りかえしのつかないミス、齋藤家意外の人間と婚姻関係を結んでしまうという愚行まで犯してしまいました。もう齋藤家のおムコさんになるという最後の手段すら僕には残されていません。


しかし、考えようによっては、僕のようなダメ人間を高貴なる齋藤家の一員としてしまう、歴史への侮辱を加えずに済んだということでは、僥倖だったのかもしれません。僕のような、齋藤家一族となれなかった賎民たちは、ただただ下界から、齋藤の御家を崇め、たてまつりながら生きていくのが身分相応というものかもしれません。

かつて、某宗教団体が「サイコーですか?」「サイコーです」とやってたのを、今後は全国民が「サイトーですか?」「サイトーです!」とやりあうべきでしょう。


−−−−−−−−−−−終 了−−−−−−−−−−−


してしまえば良いのですが、それではシャレになりません。胸に込み上げる甘酸っぱい感動をひとまずおいて、形式的な論評をします。陶芸を学んだ作家は、日常僕達がもよく目にする陶器、家の玄関にある「表札」に注目しました。ギャラリー山口の地下、階段を降りて会場に入ったとたん、その正面に非常識にデカデカとかかげられた表札、「さいとう」の文字の刻まれた巨大陶板にドギモを抜かれます。そしてその隣に祖先を称える肖像画と家紋。その前には齋藤家より贈られた花束が回転する台に置かれ、お祝気分を増しています。会場には冒頭に示した「椰子の実」をはじめ、昭和の名曲が流されていて、華やかなこの展示の中にノスタルジックな印象を与えています。そして「さいとう」の巨大表札を取り囲むように、残りの壁面にはやはり陶器で作られた通常サイズの、日本全国ベスト300の姓が刻まれた表札が展示されています。


とにかく無駄に大きい「さいとう」の表札がたまりません。狭いながらも垂直性の高い会場を効果的に利用して、「さいとう」の名前を言祝いでいます。会場には

表札は苗字を示すだけにはなく、その裏側にまで思い、及ばせる、不思議な土俗的力が潜んでいる。その力の表出こそ、当展のかたちを成すものだと考える。祖先へのつながりに集中することは、存在基盤の確認に同じ。自分を見つめるのです。

とかいった能書きが書かれていますが、この展覧会のキモは、笑いです。そして、その笑いを誘因する批評としての「陶器の表札」です。


陶磁器作家の「美術」への進出は、長い歴史をもっています。工芸品としての陶磁器は、「ひねもの」などが海外で美術的に評価される事態を受けて、国内でも工芸の枠を超えて「芸術」たることを目指す運動がはじまり、営々と繰り返されてきました。その内容は、あくまでオブジェクトとしての陶器の美しさを保持したまま、彫刻的展開を見せるものが主でした。また、インスタレーションの形式を借りて、破砕した陶器をギャラリーに積み上げたりする行為も行われてきました。


しかし、それらの「芸術陶芸」に欠けていたものがあります。批評です。「芸術陶芸」には、「芸術」に対する批評がありません。「陶芸」への批評がありません。そして、批評のないところには、現在、芸術は成立しないのです。アプリオリに芸術なるものの価値を前提にし、現代美術が様々な批評の形式としてあみ出してきた立体造形やインスタレーションの表面だけを借り、「アートっぽく」飾られた陶芸作品は、なんの破壊力ももっていませんでした。それは遅れている現代美術でしかありません。


齋藤正人氏は、まず「陶芸」に批評の矢を放ちます。オブジェクトレベルの陶器の美しさなどより、「表札」を「陶器」で作って「権威主義」のズレに注目します。陶芸が持っている、やすっぽい「立派さ」を最大限に拡大し、「陶器の権威」を笑います。


同時に齋藤正人氏の批評は、芸術としての現代美術にも及びます。陶芸作家が行った立体造形やインスタレーションが破壊力をもたないのは、それが陶芸だからでしょうか?違います。優れた作品は、その素材を問いません。陶芸作家が行った立体造形やインスタレーションがつまらないのは、素材の問題ではなく、「立体造形」「インスタレーション」がつまらないからです。例え純然たる現代美術家が製作した「立体造形」や「インスタレーション」であっても、そこに批評性がなければ、退屈な形式の反復です。陶芸作家の作った現代美術、という一種の「うしろめたさ」がない分、「美術家」による退屈な「立体造形」「インスタレーション」は、その退屈さにすら気付かれないことがあるのです。


齋藤正人氏の展示は、いかなる意味でも芸術的ではありません。というよりは、芸術的であることを回避しなければ、それは陶器やアートといった枠を超えた「批評」、普遍的(クラッシック)な作品足り得ないからです。この展示を、たんなる冗談として終わらせてしまうものは、その足下をすくわれます。この笑いに含まれる毒は、陶芸家と現代美術家双方に、じわじわと、確実に効いてきます。その毒にすら気付かないものは、その精神の壊死にすら気付かず終わるでしょう。


いや、しかし笑えました。爆笑というよりは、クスクスと、後から来て尾を引く可笑しさです。吉田戦車的というか、一時期のダウンタウンの松ちゃんのギャグみたいというか。とにかく、齋藤万歳。

齋藤正人展『-日本人の苗字ベスト300からみる- 齋藤家の上京物語』