between ECO&EGO展 ピックアップレビュー(3)

会期は終了してしまいました。この展覧会は会期中、銭湯などで様々なパフォーマンスが行われていたようですが、19日の旧リサイクルセンターでのパフォーマンス4公演をかろうじて見る事ができましたので、簡単にレビューしておきたいと思います。

会場は旧ステンレス工場の跡地で、簡単な構造の大きな空間です。使われなくなった大型機械やベルトコンベヤなどがいくつか置いてありますが、中央は何も置いておらず、そこで公演が行われました。開演は夕方6時からで、開始直後は若干蒸し暑さを感じたものの、日が落ちるにしたがって気にならなくなりました。


●丸山常生
床に紙が細長く敷かれ、その上に木片が点々と置かれています。紙の両端には椅子が1脚づつおかれ、片方の椅子の背にはベルトコンベヤを挟んで大きな窓があります。その椅子の下には銀の玉があります。反対の椅子の下のは小さな地球儀があり、そのため椅子は不安定に傾いています。口に定規?状のものをくわえ、腰に錘りのようなものを左右2つ下げたパフォーマーは、その間を危うい足取りで行き来します。


2脚の離れた椅子、銀の玉と地球儀、途中工場のベルトコンベヤを利用して登場する骨格標本と生身のパフォーマー、そしてそれらの間の往還。「between ECO&EGO」という展覧会の趣旨を、真正面から扱ったパフォーマンスです。音楽、映像、照明などの演出を完全に廃したストイックな構成で、2脚の椅子の往還の最後には、建物の窓からパフォーマーが外に飛び出し、野外に姿を消すことで、「ECOとEGO」という二元的構図を止揚してゆこうとする意図が感じられます。また、その前段階では骨格標本を登場させることによって「ECOとEGOの間にある死」を予感させ、この展覧会のメッセージ自体を更に急進的な立場から批評しているような印象も与えています。


緊密な内容で、ストレートなメッセージ性に満ちたパフォーマンスでした。こういったものを見なれていない人々にも伝わりやすいものだったのではないでしょうか。ただ、多少物語性が強い点が、パフォーマンスとしては気になります。


●石川雷太+Erahwon
サウンドパフォーマンス。イントレに囲まれた中に音響機材とコンピュータが置かれ、イントレには鉄板が吊るされています。2人のパフォーマーは、その鉄板に隠れて見えません。照明が落とされ、工事現場用の照明のみで照らされた中で、パフォーマーは鉄板を叩いたり、こすったりします。その音はただちに録音され、一定の間隔で反復され再生されます。その反復がスピーカーから大きな音で流され、リズムを形成します。パフォーマーが鉄板を使って様々に出す音が、同じ工程で録音され反復され再生されて、会場は金属音の重いビートによって満たされます。


P.I.L(パブリック・イメージ・リミテッド)などの、過去のノイズ・パンクやインダストリアル・ロック、あるいはスペインのパフォーマンス集団「ラ・フーラ・デルス・バウス」のような攻撃性を最初は感じますが、しばらく聞いていると、それがこの会場の「過去の記憶」に結びついたもののように思われてきて、ある種のノスタルジーを喚起します。昭和の高度経済成長期に、ステンレス工場としてフル稼働していた筈のこの工場には、今回のサウンドパフォーマンスのような音が鳴り響いていた筈です。役割を追え、錆び付いた機械をいくつか残して倉庫となったこの会場に、新たに鳴り響いた金属音のビートは、死んだ工場の記憶の鼓動のように聞こえます。


●ヒグマ春夫+女性ダンサー2名
映像を映すプロジェクターの光線方向に、何枚かの薄い布が若干の距離を置いて天井から吊るされています。その布は、プロジェクターから離れるに従って大きくなり、映される映像の、それぞれの布の位置でのスクリーンとなっています。また、斜め方向には丸いスクリーンが別に設置されています。


ヒグマ春夫氏が今回の展覧会で出品した、ART FACTORY内のカイワレのインスタレーションを撮影した映像がそのスクリーンに投影されます。最初に川口市内で採取された水の映像、カイワレの発育の様子などの映像が映るスクリーンに、女性ダンサー2名が干渉します。女性ダンサーの衣装自体もスクリーンのような布で出来ています。


最初に「映像とダンスのコラボレーション」とアナウンスがあったとおり、これはパフォーマンスではありません。定義上、パフォーマンスというのは訓練されていない身体によるものであり、今回のダンサーは、60年代の土方巽などに代表される暗黒舞踏系の訓練を受けた人です。具体的には、身体に障害をもつ人や身体の一部を欠損してしまった人の動きをトレースする等の手法で、身体の日常的制度から逸脱してゆく舞踊です。清涼感を感じさせる水とカイワレの緑のイメージに、水俣病などの水質汚染から発生した公害被害を連想させる舞踊を絡めることで、この展覧会のテーマを浮かび上がらせる構成です。


映像が最終的に「母なる海」のイメージで終わるところと、舞踏内容の絡まりあいに、若干ツメの甘さを感じるところもありましたが、比較的メッセージがストレートで、明解な構成をもった「コラボレーション」です。


●新生呉羽+山岡佐紀子ほか
複数の女性によるパフォーマンスです。最初スクリーンに男性の写真と、女性の立場から見た「彼と出会った場所」「別れた理由」が映されますが、それが終わると、パフォーマーが会場内に散って、それぞれの場所で寝転がる・米をこぼす・ゴミの入った袋を繋げたものを引きずり回す・観客に突然問いかけるetc.の行動をとります。その脈絡のなさと、突然観客に干渉するところ等に、観客はある種の不安感を持ちます。


全体を統御する構造がないこと、複数の女性の動きに関連がないこと、観客とパフォーマーの境界を確定しないなど、徹底的に構造性・物語性を排した断片的なパフォーマンスです。そのため明確なメッセージは伝わりませんが、ある意味パフォーマンスという表現の特徴をよく表しています。始めから終わりまで「通して」見る必要がなく、途中で会場から出たりしても、その本質は損なわれません(実際パフォーマー自身が途中で一度会場から姿を消すシーンもありました)。日常的な安定した空間を瞬間瞬間で壊す異化作用の積み重ねでできています。


興味深かったのは、観客の中に、知的障害をもつと思える方がいたのですが、その人の行動が、このパフォーマンスが始まる前は気になったものの、この公演が始まったとたん、まったく気にならなくなりました。電車の中で突然歌い出すような人がもたらす日常空間のズレは、この場合はパフォーマー自体が生み出していたため、結果的に知的障害をもつと思える人の存在は「普通」になったのです。


ネガティブな要素(不機嫌そうな行動、生理的不快感、ある種の攻撃性)に頼りすぎな印象を持ちましたが、個人的には興味深く見ることができました。


というわけで、なんとも盛り沢山な展覧会でした。次があるといいな。