「めからとく」展(3)

作品に移ります。赤松ネロ氏は、先の川崎市岡本太郎美術館での展示作品と同じものを出しています(id:eyck:20040414)。やはり大量のビニール人形を建物の上層から投げ落としていくパフォーマンスの記録映像、および投げられたビニール人形の展示ですが、今回新たに会場の校舎を使ってパフォーマンスを行っており、映像はその時のものにさし変わっています。


作品自体の印象はid:eyck:20040414で書いたものと同じですので、そちらを参照して頂きたいのですが、新たに行われたパフォーマンスの記録映像には、とくに序盤に「人形の落下した状況」を写したものが入っています。大勢の学生が携帯カメラで落ちて来る人形の姿を撮影していたり、自分の頭上に落下した人形に歓声をあげたりしている様子、アスファルトの上に横たわった人形などです。このことによって、岡本太郎現代美術館での、映像自体の作品性を重視したものから変化し、パフォーマンスでの観客の反応を、来館者に客観的に見せるものとなっています。


「パフォーマンスの目撃」と「その目撃という状況を見る(考える)」という行為を分割することによって、「めからとく」という展覧会名にフィットした展示になっていると思えます。というわけで、展示順路の最初にもってこられた理由が明解です。


斉門ふじお氏は、多数の男女のヌードやポートレートを展示しています。額に入れることなく、美術館の壁面に帯状のボール紙をぐるりと張り、そこにプリントを大量に並べていきます。
正直、この展示には「とく」の部分が欠落しているように思えます。恐らく、性的な写真の羅列によって、観客の情動をゆり動かそうとしているのだと思うのですが、写真自体がとりたてて猥雑ではなく、ファッショナブルに撮影されており「美術館という場所に性的写真をベタベタ張る」というインパクトは成立していません。中央にはこの作家の、やはり「ファッショナブル」な仕事の経歴(有名ポップ歌手を撮影して音楽雑誌に掲載した仕事など)がプロジェクターに写されているのですが、これも「作家の紹介」以上のものではないように思われ、意図が不鮮明です。


ウエヤマトモコ氏の作品は、この展覧会の中で「目」以外の知覚を重視した作家です。呼吸音のようなサウンドを発生させながら、その音響装置の、音の大小に合わせた電圧の変化をエアコンプレッサーに連動させて、パネルに張った多数の風船を膨らませたりしぼませたりします。言わば音の視覚化です。


ここでは目と並列に「耳」が重視されています。またピンクの小さな風船が、身体を想起させる呼吸音に合わせて膨らんだり萎んだりする様は。性器のイメージも喚起します。目だけではない、複数の知覚や身体感覚全体に働きかけながら、その連動とズレを可視化していると思えます。


美術作品というのは視覚的と考えられますが、実際には視覚的と言われがちな絵画であっても、マチエールやモチーフによって「触覚」や「嗅覚・味覚」にも働きかける場合があります。この作品も、観客の複数の感覚に働きかけていて、こういった作家をチョイスした企画側はけして「視覚」だけを問題にしているわけではないことがわかります(赤松ネロ氏の作品も、広い意味での身体感覚を扱っていると思えます)。


小瀬村真美氏は旧作の再展示のようです。2つの映像作品が主要な展示物です。1つは静物画、他方は人物画を元に実際のモチーフ(静物は卓上の果物、人物は椅子に沈み込んで眠る女性)を組み、長時間ビデオで定点撮影して、モチーフの時間経過による変化を追い、その映像を早送りで映写しています。また、撮影で使われた、変質した果物がガラス瓶に入れられて展示されています。
MOTアニュアル(id:eyck:20040401)、川口eco&ego展(id:eyck:20040619)での作品と同様、絵画における時間というものを映像を使って「ときほぐす」作品と言えます。


明らかに「静止したもの」としての絵画に含まれる時間の観念に注目している作家で、今回の展示もじゅうぶん「概念的」作品です。映像による生理感覚の励起を狙った小谷元彦氏や、視覚的効果に特化したダグ・エイケンらのビデオインスタレーションとは違いますし、そういう意味では小瀬村氏は「めからとく」=視覚(先行)型、とはいえない作家と思えました。
ただ、この作品に限定していえば、映像的には比較的観客の生理感覚にうったえるものだと言えます。絵画では瑞々しい姿を固定されている果物群が腐敗してゆく様子、あるいはポーズされていた人物が呼吸し、微妙に身体を動かす姿を写すことで、ある種の生々しさを匂いたたせています。


というわけで、展覧会全体を見れば「めからとく」は、実は広い意味での「身体感覚」「生理感覚」に訴える作品を展示し、その作品を''体感''することから、美術の思考を開始しよう、という意図なのだと推測されます。だとすると、やはり「めからとく」という展覧会名は今一つ、と思えるのですがどうでしょう。知覚を目に代表させるのは故無きこととは思いませんが、タイトル自体が、観客の生理感覚全体に訴えるものであってもよかったと思えます。また、先述のように、「とく」の部分が弱い、というのがあります。まったくないわけではありませんが、それは作品に内包されているものが大半で「展覧会」が仕掛けているものはパンフ以外には見当たりません。


タイトルにこだわりすぎだと思われるでしょうが、個人的にはこの展覧会の「いい線いってるけど、若干ツメが甘い」気がする部分を、もっともよく表している気がしました。いろいろと大変な作業の積み重ねだったと思われますが、逆に展覧会名だけは徹底的に練り抜いておけば、同じ内容でも、もっと企画意図が明確になり全体の水準が上がったのではないかと思います。


いずれにせよ、社会的な射程距離をもった企画の発信だったと思います。この企画をたてた専攻コースは制度の変更でなくなるそうですが、キュレーションを学ぶ場自体は継続されるとのことですから、今後も積極的な活動が見たいと思います。

「めからとく」