一つなるもの/分裂/試行錯誤(1)

shugoarts小林正人展を見てきました(http://www.shugoarts.com/jp/kobayashi.html)。文章が長くなったので、2回に分けます。

会場の壁に、中程度の大きさ(縦60cm×横100cm程度?)の絵が5点立て掛けてあります。また、会場の壁の中程から高いところまでに、小さな作品がいくつかかけてあります。受け付け内の壁面や、また奥の会議室までの壁面や会議室内部にも、小さな作品がかけてあります。
どのキャンバスもひしゃげ、変形しており、画布はタックス(釘)だけではなくネジでドリル打ちもされています。主会場の壁に立て掛けてある作品は、背を向けた女性の裸体が画布に油絵の具で様々な色彩やトーンで描かれており、木枠の下の1本を前に出っ張るように付けてたわんだ画布の上には銀色の絵の具のチューブが重しのように置かれています。壁面に掛けられている小さめの作品は、画面全体を覆う色彩の中に点々と違う色の絵の具が打たれており、星のように見えます。


参考として、shugoartsのサイト内およびホルベインのサイトにある作家へのインタビューを読みました(http://www.shugoarts.com/jp/kobayashi.htmlからpdfデータをダウンロード)。このインタビューによると、作家は木枠に画布を張ってから絵を描くのでは無く、木枠/画布がばらばらになっている状態から、画布に絵の具で絵を描くのと同時に、徐々にキャンバスを構築してゆくようです。作家の言葉にそくして言えば、絵画を「単体」のものとして成立させるには、木枠と画布と絵が分離することなく存在せねばならず、描くという行為の全体の中で、画布に絵の具をのせ、その画布を木枠に固定するという行為が「同時に」行われる必要があるということです。また、絵の具は筆で画布に定着されるのではなく、手で直に画布に擦り付けられているようです。そして最終的に、歪んだ木枠に像を表した画布がかろうじて張り付いているような、特異な作品が形成されています。


この作家は、上記のように絵が「単体であること」を追求しており、その姿勢が作品に深刻な破綻を産みます。過去の作品を参照すると、そもそも物質的属性の違う木枠/画布/絵の具による像を、「同時に」「単体」として成り立たせようとした結果、木枠は露出し歪み、画布は波打っていきます。各要素の属性はむしろ際立って発現し、分裂しながら、無理矢理に釘やネジ、紐で仮にとめられています。もはや壁にかけることも自立させることもできなくなった結果、展示場所の壁面に寄り掛かる形になり、結果的に場所すらも作品に内包させざるを得なくなる場面が出てきます。


この破綻したオブジェクトを、かろうじて絵画にとどめているのは、その画布に描かれた絵の強度です。絵の具を手で画面に擦り付けながら基底材と同時に構築されるその像は、一貫して「明るさ」を指向しているように思えます。手のひらでひたすらに引き延ばされてゆく油絵の具は画布に埋込まれ、画布との距離をゼロにしてゆきながら様々なグラデーションを生成し、光っているものを描くのではない、絵の具自身に輝きを発生させるような絵を産みます。この輝きは絵の具を作家が言うところの「抽象に存在」するものへと変換させます。


木枠/画布/絵の具による像という異質なものを一体化させようという試みは、画布に擦り付けられる絵の具による描画の段階、すなわち一般的な意味での「絵を描く」ところでは高い達成を果たしていますが、画布・木枠などとの融合には失敗し、逆に各要素の分裂を激化させます。この分裂を乗り越えようとするときに現れるのは、おそらく「基底材を組む」という意識から「基底材をも''描く''」という意識への移行です。描くように基底材を組み、基底材を組むように描く。このような意識の変化が、基底材の歪みというものを蒸発させ、描かれたものの総体として、「結果的にそのように構築された絵画」を成り立たせようとしたのだと思えます。木枠やキャンバスは歪んだのではなく、「描かれた(という意識の基に構築された)結果」ある形態を示すことになったのです。

以下次回。