一つなるもの/分裂/試行錯誤(2)

昨日の続きです。

では、その段階で小林正人氏の絵画は完成したのか?そうは考えないところが、この作家の恐ろしさです。「総体」と「単体」はまったく違います。総体はあくまで分裂した各要素の、ある重なりあいの様相であり、実は分裂そのものです。
あくまで「単体」を指向すること。木枠も、画布もない「絵画」だけの存在というのは、しかし、面積をもたない点、というようなものと同じ''概念''です。総体としての小林氏の絵画は、現実にはなお木枠と画布と描かれた像があらわになったものであり、異質なものを合一させながら分裂した、複数の面を持たざるをえない「絵画の暴露」として見えています。そのことをいまだに乗り越えるべき切実な課題と、最も深刻に捉えているのが、小林正人氏本人なのだと思えます。


その切実さの結果もたらされたものが、今回の展示で現れた裸婦像および、画布上におかれた絵の具のチューブではないでしょうか。単一な絵画は現前せず、突き詰める程に露呈する分裂を小林氏は個人的な''女性''という観念で包容しようとしているように思えます。また、絵の具のチューブには小林氏のある願いが象徴的に込められているように思えます。絵を描くことが絵の具だけで成り立ち得たら、と小林氏が思っていると想像するのは、考えすぎでしょうか。少なくとも、小林氏が、絵の要素として、木枠や画布を超えて、絵の具に特権的な価値を与えているのはたしかだと思えます。


僕はこの方向性、つまり、どうにも解消しようのない分裂を昇華させるのに''女性''のイメージを登場させたり、なくなりはしない木枠や画布を押さえ付けるかのように、絵の具の顕揚を儀式的な形で表したりする事は否定されるべきだと考えます。小林氏の''女性''に対する考えがいかようなものかは関係なく、今回の裸婦が絵として良くないことと、今まで作品を構成する各要素の分裂の昇華を目指して来た中で、そのような昇華を無視した形で絵の具のチューブという要素を象徴的に追加したことは、拙速な試みの結果なのではないでしょうか。それは基底材を組むことと絵を描くことを無理矢理に一致させたことによる破綻と同じように、今回の作品を破綻させていると思えます。


小林氏の可能性は、小林氏が、誰も考えが及ばないような次元で自身の絵画の「達成」をイメージしてる点にあるのでしょう。おそらく、小林氏はなによりもまず「本来的な存在の様相としての単一性」が一挙に成立すべきだと考えていると、僕は推測します。一つなるものへ向かって離脱する「絵画」という概念は、僕にはほとんど神秘的なイマジネーションだと思えるのですが、少なくとも小林氏は、絵の具による像の部分では、そのイメージを予感させる輝きを実現してきたと思えます。そしてなお、小林氏にとっての作品はいまだに未完であり、絶えまない試行錯誤の過程にあり、そもそも「完成」などという事はありえない、破綻しながらも不断の行為なのでしょう。その長い行程の一点として、今回の作品があるように思えました。

小林正人「星の絵の具」