「見る」ことと「描く」ことのデッドヒート

ART TRACEギャラリーで、藤原佐多央展を見てきました(http://arttrace.org/gallery/index.html)。
キャンバスに油絵で描かれた、オーソドックスな絵画です。大小さまざまなサイズの作品がありますが、基礎的な構造は共通しています。色彩は多種多様ながら比較的彩度の押さえられたトーンで構成されており、また白が大胆に使われていることもあって、全体に不透明な印象を与え、油絵の具の質感がダイレクトに感じ取れるマチエールとなっています。タッチは太めの筆でほとんどが数センチの短いストローク、あるいは画面に押し付けられただけの点が多く、長いストロークの割合は少なめです。どのタッチもスピードを感じさせ、スポーティーな印象があります。


もっとも特徴的なのは、そのタッチの狭間から幽かに「覗き見える」空間にあります。風景を見ながら描かれていると思えるのですが、ある部分では密に、ある部分ではまばらに置かれた筆のタッチが前面に出ていて、その風景はかなりの程度まで筆跡に解体され、具象と抽象の間でかろうじてイリュージョニスティックな奥行が感じ取れます。


このような画面、絵の具が実際の空間の奥行から乖離して画面内で自立した関係を構築しようとしながら、しかし完全に抽象化されないという独特の構造は、恐らく藤原氏が絵を描くときの「風景を見る」時と「絵の具を画面に置く」時のサイクルが短いのではないかという推測を産みます。「見て」から「描く」までの時間が短い、あるいは極端に言えば、それはほぼ同時に行われているのではないかと思えるのです。そのことが、画面全体に高速に展開していくタッチとして現れ、参照されている風景を覆い隠すように絵の具が構築される絵画を成り立たせているように感じられます。


「見る」ことと「描く」ことのレ−ス(競争)、そのデッドヒートは、藤原氏の絵画に、Intensity(強度)の高さを付与しています。「じっくり」見て「じっくり」描かれる絵画の場合、「描く」ことは視覚に従属し、ある明晰さのもとに絵画が構築されていくこととなりますが、「見る」ことに追い付き、追いこすように絵が描かれるとき、タッチは視覚の支配から逃れ、タッチとタッチの関係性が自立的に生成されようとします。しかし、藤原氏のタッチは、視覚の拘束から完全に自由になるのではありません。視覚に追い付きそうになりながら、決して「ぶっちぎって」しまうことなく、ギリギリの緊張関係を視覚との間に維持しています。


この高速かつ強度の高い絵画の生産が、藤原氏が1977年生まれの若い作家であることを忘れさせる程の豊かな「絵画的経験」の備蓄を形成しています。比較的広いギャラリーに並べられた多くの作品は、勢いを感じさせながらも充実しており、その背景に様々な試行錯誤があったことを伺わせます(会場に置かれた作品ファイルからも、それは感じ取れます)。画面の密度の高さは、しかし闇雲に描かれたわけでは無く、近代絵画の中核的な問題意識をきちんと踏まえた上に構築されており、この作家が高い知的認識を持ちながら、あえて自らの明晰さを追い詰めるように「暗闇に向かって飛ぶ」ようなジャンプをくり返しているように思えます。


自主組織による、「美術に関する研究、または情報提供を目的としたNPO」の運営の一環として、両国という場所に若手作家の共同運営のギャラリ−が設立されているという事自体も注目に値しますが、美術はなによりも具体的な作品の質の存在を、その前提とします。ART TRACEギャラリーで開かれた藤原佐多央展は、このギャラリーの意義に、たしかな内実を与える展覧会と言えるのではないでしょうか。


藤原佐多央展